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おおあさ・大麻・ヘンプ(2)

今回はおおあさの古代史について述べてみたい。古くはBC8000年に福井県鳥浜遺跡から大麻の縄が出土、BC4000には中国の浙江省の遺跡から大麻と絹の織物が発見されている。

ここで話題にしたいのは中国最古の詩集である『詩経』ひん風「七月」の麻に対する記載である。『詩経』といえば、周代に編纂され、雅(小雅、大雅、宮廷の宴会、儀式の楽歌)、頌(祭典の舞楽)、国風(諸国の民謡)に分類される。孔子が各地の歌謡3000余編から、305首選定したとも言われる。私たちが現在目にするものは大毛公(毛亨)の注釈によるもので『毛詩』と称される。

その中の、ひん風「七月」は現存する『詩経』中で最も長い詩である。成立年代は争点となっているが、ここでは周代、だいたい今から2500~3000年前くらいと考えておこう。「ひん(表記できず)」とは地名で、陝西省彬県付近という見解が定説とされている。

内容的には一年の農事暦を歌ったものであるが、古のことであり、漢代においてもすでに一定した解釈はなかったといわれている。また、種々の文字の解読も諸説考えられるので、ここでは、だいたいの解釈を記すのみにしたい。

9月(周の暦で)、麻(どの部分かどんな状態か諸説あり)を収穫し、10月に貢納するとある。麻の繊維が納める対象とされていたかは確定できない。染色の記載から、染めやすい絹が対象と考えられるが、麻との混紡もあったのかもしれない。

大麻を指す漢字は「麻」と「くさかんむりに且(表記できず、ショ、ハと読む)」が使われている。音韻の関係なのか、意識的に書き分けているのか。後者は『説文解字』には、くつの中のしき草とあり、他に実のある麻、粗い、黒い、悪い、という意味がある。ここでは実のある麻という従来の解釈があるが、実を収穫できる、つまり雌株の繊維からできる「布の原料」という記載の例も多い。

ここで整理したいのは、近代以降は麻の雌株からは種を、主に雄株から繊維を収穫している。雌株からとれる繊維は粗く、縄などになり衣料には適さないが、「七月」の村ではその雌株の繊維を利用していた可能性もあるらしい。

また、雄株は「台の下に木(表記できず、シと読む))の文字を当て、大麻の実のできないもの、と解釈されるが『大漢和辞典』には「からむし」ともある。なるほど、からむしは宿根草で、種は非常に細かく、栽培は根で増やす。種は確かにあるが実として食用にできるものではない。しかし、からむし自体種類が多く、いったい何を指すのか、そもそも多くの論争がある。

古のことで、わからないことも多いが、ひん風「七月」の村の人々がどんな麻を育てていたのか、興味のあるところである。当時、麻を刈り取る作業は力の要る仕事で、男の仕事とされていたという。豊富な質のいい水も必要である。『詩経』の記載も、昔からの農事暦を伝承され、また他の農業も兼業している麻農家の方が解読されたら、また新しい解釈が出るかもしれない。もっとも、周代のことであるから、現在の気候とはかなり異なることを考慮に入れなければなるまい。司馬遷の『史記』にも、現代では砂漠化に近いような場所が漢代初期には草ぼうぼうの温暖な気候であろうと思われる記載がある。

時は下って、漢代~唐代あたりのシルクロードにおける、織物の発掘物は、毛織物、絹織物が圧倒的に多いが、トルファンのアスターナ遺跡からは麻と絹で織った布靴も発掘されている。ところが、だいたいは単に「麻」としか表記されておらず、いつも残念に思う。

もう少し前の時代になると、BC500~BC300年のザーホンルック遺跡から出土した女児用の毛織物のワンピースにはその保存状態のよさ、デザインの斬新さにまったくもって脱帽した。2500年近く前の出土品がここまで、ほぼ完全な状態で残っているのは、シルクロードの乾燥地帯、昼と夜との激しい寒暖差、強風による。その自然環境がミイラと共にその副葬品の保存状態を最高に保っていたのである。

2500年前どころではない。NHKの『新シルクロード』でも取材された小河墓遺跡、つまり、4000年から3000年前の遺跡からも色鮮やかなストライプの綴織が出土されている。

織物の歴史は確かに古い。しかも、遠い昔にその技術は頂点を究めているのだ。恐らく女性なのであろうが、彼女たちのテクニックはさぞ卓越していたであろう。今でも機織に興味を持つ女性が多いのは遺伝子のなせるワザであろうか。

麻栽培、歴史の話題からシルクロードの織物の話まで展開してしまった。長い長い歴史を経て、今着ている服がある、と思うと感慨深い。近頃は手織物のぬくもりにはまっている。

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おおあさ・大麻・ヘンプ(1)

奥会津の昭和村でアサといえば、おおあさ(大麻、ヘンプ)を指す、と既述した。かつてはからむしと共にいつくしんで育て上げていた生活必需品である。

「タイマ」と音読みすると、たいていの人々は眉をしかめることになる。大麻取締法を連想するからだろう。かつては自分もごたぶんに漏れず、そんな反応をしていたと思う。数年前、ある20代の人から、

「大麻に興味ありますか?誤解しないでくださいね。麻薬と思われてしまうものではなくて、布や紙、食品、神事用、産業用、趣味にもなる万能な植物なんですよ。これからおおあさと言いますから」

このときは、マリファナのイメージ、麻といえばあの涼しいけれどシワシワになる、という知識しかなかったので、食品、産業用という響きはよく飲み込めなかった。その人から赤星君という、君というからには若そうな人物の著書を紹介された。『ヘンプがわかる55の質問』バイオマス産業社会ネットワーク発行 機会があれば本人に注文しようと思っていた。

と、その記憶が頭の隅に移動しつつあるころ、関西で「大麻に興味ありますか?」と同じような質問をされた。このときは壮年の方からである。どうも全国的にいろいろなグループがあるらしい。

那須をドライブしていたとき、ふと横をみると「大麻博物館」の看板が…。そこで、世界のヘンプの糸作りの違いなど、いろいろなことを教えていただいた。帰宅後本を注文。200011月が初版であった。

おおあさ入門にはもってこいの書であろう。全体像が理解できる構成になっている。万葉集には麻にまつわる歌が55首あることから、55の質問ということらしい。その後赤星さんご本人とも知り合う機会があり、彼が開発した製品などいろいろ教えて頂いた。

おおあさは雌雄異株で、問題とされるのは雌株の花穂、葉である。THC(テトラヒドロカンナビノール)という含有成分が向精神薬作用をもたらすため、問題の焦点となっているのだ。もっとも海外ではすでにその花穂の部分も医療目的で使用され始めている。薬効が高いらしい。

現在の産業用ヘンプにはそのTHCがほとんど含まれていない品種を使用している。日本では栽培許可制となっており、盗まれた場合には栽培者の責任となるので、鉄柵で囲み、花穂、葉は灰と帰している。現在、実用されている部分は、茎と根と種の部分である。

おおあさといって、わざわざ珍しがることもない。ただ意識していないだけで、実は私たちの身の回りに昔から根付いているものである。誰もが口にしたことがある七味唐辛子の麻の実、お盆の頃に大概のスーパーに出回るオガラは皮を剥いだ後の茎、神社の注連縄、カランカランと鳴らす鈴縄、凧揚げの糸、花火の火薬の原料、雷様から守ってくれる蚊帳、などなど、枚挙に暇がないほどである。

このようにおおあさは日本でも太古の昔から生活の一部になっていたが、吸引という習慣がなかったにもかかわらず、戦後の大麻取締法によってその地位は一変してしまった。一度ついてしまったイメージはなかなか払拭できないようである。といっても世界では、どんどん新しい使用法が開発されている。

種子から良質な植物油、シャンプー、リンス、化粧品などが一般にも手に入りやすくなり、車のガソリン代わりにもなる。ヘンプビールはそのいい味もあって市民権を得てきた。茎のセルロースからは微生物に分解され土に戻る生分解プラスチックが製造され、知る人ぞ知る、ベンツの内装にも多用されている。重量的にも軽く、もちろんエコロジー対策にもなる。茎の繊維を固めるとコンクリートより強度が高く、軽量、断熱効果のある建材として実用化されている。

くるみの味がする、麻の実の料理やアロマオイルに関する本もすでに出版されおり、麻の実をメニューに出しているレストランも増えてきた。ただし、食べ過ぎると人によってはチョコレートを食べ過ぎたときのような症状になる人もいるので、薬味程度からはじめるとよい。

糸、ひもの分野では麻太郎さんらの活動で、ヘンプアクセサリーがナチュラル志向ではやりだしている。電車の中で立ちながらストラップやブレスレットを編んでいる女性も見かけるほどである。糸の種類や色も増えて、東急ハンズでもかなりの面積を占め始めた。

ここまでは趣味・産業用のヘンプの話である。神事用、および精神世界のおおあさ研究家は中山康直氏。製品開発のほか、大島で縄文エネルギー研究所を主催し、『麻ことのはなし』評言社の著者でもある。天皇が大嘗祭でアラタエ(大麻)とニギタエ(絹)をお召しになることなども記載されている。昔からおおあさは神の依り代と考えられている。ある程度、古神道、スピリチュアル的なうんちくがあった方が読み進めやすいだろう。上記の赤星氏とヘンプオイルを燃料にヘンプカーで日本一周をした人物でもある。

では、麻に興味を持ち、関わる人はどんなタイプか?種別すると、まず、先祖伝来麻を栽培し続けている人々、最近栽培の許可をもらって栽培を始めている、もしくは始めようとしている人々、麻の文化を大切にしている市町村、長野県の美麻村ではフェスティバルも毎年開かれている。趣味、衣服や産業用にエコロジー製品、バイオマスとして開発、麻の有効性を世間にアピール、普及していこうとするグループ、このグループは韓国や中国、欧米の資料も集めている。麻料理、化粧品、アロマテラピーに麻を利用しているグループ、奈良晒し(大麻の織物)、麻を素材に紙のアーティスト、服のデザイナー、オーガニック食品に興味がある健康志向の人々、医療大麻の研究グループ、ニューエージ系の人、などなど、どちらかというと、20代、30代の若いグループが中心的存在である。

そして、忘れてはならないのは、戦前、すでに青年であられた現在70代、80代以上の方々である。精麻を手にすると「ありがたい」と拝むタイプである。神社や神棚に祀るものであるから。からむし(苧麻)とおおあさはどちらが日本では古いか、という話は専門家に任せるとして、植物からとれる繊維、アサは動物の皮革とならんで、人類の生活に古くから関わってきたものである。

ちなみに、布の方面ではおおあさの衣服はしわくちゃにはならない。麻が植物の茎や葉脈からとれる繊維の総称ということがあまり理解されていないだけであって、他の種類の亜麻や苧麻(からむし)のシワになりやすい性質と混同されているのである。なお、おおあさは指定外繊維なので洋服のタグに「麻」とは表記されず、最近では「ヘンプ繊維」とされ、綿と混紡されるのが使いやすいそうである。着心地は上々、電磁波を避ける性質があるとも聞く。そして、からむしよりははるかに手に入りやすい価格だ。

奥会津は昭和村のからむしと栃木県は粟野町の大麻の原麻を仲良く並べると、妙に落ち着く気がする。縄文の記憶であろうか。収穫の喜びなのかもしれない。

次回は一般にはあまり知られていない大麻の古代史について触れてみたい。(おおあさ、大麻、ヘンプ(2)へつづく)

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昭和村のからむし(2)

いよいよ、からむし織初体験である。以前、長野県の上田紬の大きく長い高機を体験したことがあるので、その高機はコンパクトに感じた。上田紬のときは、数少ないプロの方が織っている帯の途中から入れてもらったので、自分が織った場所が妙に透けてしまった。あとから解くとはいえ、気が引けた。あのときは弱かったのだな、という印象を思い出しつつ、力強く打ち付けたら、ガチガチになってしまった。帯とコースターは違うのです。

強く、弱く、を加減しながら織ると味がある布になる。カタン、コン、カタンカタン。しゃべりながら織ると、二本重ねて入れてしまった。織っているときには話しかけてはいけない。無心になる必要があるのだ。「決して見てはなりませぬ」、夕鶴の話はこんなところからきているのではないか。

植え付け、焼畑、施肥、垣つくり、刈り取り、浸水、皮はぎ、苧引き、苧績、手織り。栽培方法から糸つくり、機織の構造、みな女性たちの智慧の結晶である。からむしの繊維は実はアサ(大麻、ヘンプ)より長く、頑丈だといわれるが、乾燥には弱い。だから、収穫も終わった湿度の高い雪の中の機織は格好の季節となる。自然と完全に一致した作業でよくできたものである。

シャリ感、光沢のあるその布をながめると、昭和村で出会った暖かい人々を思い出す。からむし工芸博物館に飾ってあるおじいさん、おばあさんをはじめとする昭和村の人々のポートレイトは気持ちがやわらいでほーっと胸の芯が暖かくなる笑顔であった。カスミ草が風に揺れて微笑んでいるような、そんな自然体の表情なのである。厳しい自然と向き合いつつ、沢山の経験を紡いできた人々である。布が体温を持って、そして尊く思えてくる。モノに対する姿勢も正したくなる。この人々の智慧と経験の上に出来上がってきた宝なのだから。

そのからむし工芸博物館でたくさんの本に出会った。なかでも『奥会津 神々との物語』奥会津書房が目にも美しくすばらしい。70代、80代の方の語りも笑顔の写真入で掲載されている。

「沢のちっと入ったとこさ古木があって、それをまつり木どして決めである。ブナの大木だな。山さ入る時は必ず、「一日安泰に働けますように」って、手ぇ合わせで、帰って来っと、「無事に帰ってこれました」って、手ぇ合わせるんだ。」吉田貞夫さん

このブログでもしばしば取り上げている人と木との密接な関係である。時に自然に頼り、守られ、感謝を忘れない。ブナは雷も避ける精霊の宿る木と言われている。私が昭和村に宿泊していたたそがれ時、空を山吹色に染めた激しい雷雨も、そのブナの木を避けたことであろう。

上記の本の中で最も印象的なのが菅家博昭さんの「見えないものを見る意志」の冴えある文章である。奥会津の人と自然との関わり方が他郷の者でも理解できるような気がしてくる。帰宅後、偶然にも同じニフティーのココログに菅家氏のブログを発見して驚いた次第である。

自然に感謝しつつ真摯に生きる奥会津の魅力は、降り積もる白い雪より深い。

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昭和村のからむし(1)

福島県は奥会津の昭和村を体験してきた。知る人ぞ知る、自然と人が調和しながら生活している場である。友人や先輩の親戚が昭和村出身ということで、間接的にその村の話は耳にしていた。そうでもなければなかなか出会えないプレミアムの村である。

「いいとこだよ~一度行ってみてね。帰りたくなくなるよ。」

そして、からむしを栽培しているところ、という情報から、いつか行ってみたい、と常々思っていた。また、昭和村を紹介する地方の情報誌を偶然眼にすることがあり、この夏こそ体験しようと決めたのである。

会津田島から山を超え、分け入ったその村は落ち着いた閑静な村里であった。ほとんどがかやぶき屋根からトタンになってしまっているが、みずみずしい田んぼの緑とかやぶき屋根型の赤い屋根は実に絵になる風景である。カエルが田んぼからぴょんと姿をあらわす。

今回の旅のメインは「からむし織」体験である。村の中心にある、からむし織の里にはりっぱなからむし工芸博物館、織姫交流館、郷土食伝承館苧麻庵が建っている。焼け付くように暑い外気の中、建物の傍らに世界中の苧麻が元気良く育っていた。ちなみに、「野からむし」はどこにでも生えているというから、誰でもどこかでお目にかかっているはずである。

葉っぱ自体はシソに似ているが、背は2メートルにもなるという。からむしはイラクサ科の宿根草で、苧麻(ちょま)、青苧(あおそ)と呼ばれる。いわゆる麻であるが、麻とは植物の茎の皮や葉脈からとれる繊維の総称であって、世界には多くの麻の種類がある。昭和村では麻とはおおあさ(大麻、ヘンプ)を指し、昔からからむしと共に植えつけていた。

昔はからむしの刈り取りをはじめとする一連の作業が終わると、今度はアサ(大麻)の刈り取りが始まる。背の高いアサはからむしの風除けになる。宿根草のからむしは5年もすると根が弱ってしまうのでその場にはアサを植えて土壌改良をする。このようにからむしとアサは不即不離の関係にあった。

ところが、戦後の大麻取締法の関係から次第に村でのアサ栽培は減っていった。もし、アサを盗まれたら、栽培者の責任も追及されるからである。現在、アサの栽培は消滅してしまっている。そのあとにはカスミ草が美しく咲き誇り、昭和村といえば日本におけるカスミ草生産第一位となっている。

昭和村は本州唯一のからむし生産地で、伝統的な方法によって高品質な原麻が生み出され、生産と苧引きの技術が国選指定保存技術に、からむし織は福島県指定重要無形文化財として認定されている。

実は小千谷縮と越後上布の原料となっていることは意外と知られていない。近代以降、分業化され、からむしは小千谷ではしぼ(皺)をつける技術が発達したため、さらに夏の肌触り感がよくなった。以前、すてきなブラウス、と値札をみるとふつうの製品が10数枚買える値段で驚いたら、小千谷縮であった。高級品である。

昭和村のからむし織はもっと素朴である。染色していないものは小麦色の地に薄茶、時に緑色などが入り、ナチュラルで目に優しい。製品は幻の繊維、織物と言われるくらいだから、オートクチュールを買うくらいの覚悟はいる。(昭和村のからむし(2)につづく)

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杉の枝の迎え火

車を止めて、農家の朝取り野菜を手にしているとき、ふと傍らの家に不思議な物体がそびえ立っているのに気がついた。

高さ4メートルくらいに木を組んで作ってあるその形は、子供の頃、仲のいい男女をからかって壁や地面に書いた「アイアイ傘」のようだった。三角の真ん中に支柱があるという形だ。面白いことに三角形のそれぞれの頂点に針葉樹の枝が天狗の扇のようにつけてあり、さらに二等辺三角形の二本の辺の部分に3本ずつ等間隔につけてあるので、その枝は全部で9本ということになる。

眺めていると、ちょうどその家のご主人が車で帰宅された。ちょっとインタビュー。

「ちょっとお伺いしてよろしいですか?これはどんな意味があるのでしょう?」

「これはね、新盆の年から3回だけ、飾るんだよ。提灯ぶる下げてね。」(実際には奥会津弁)

「仏様の目印にするんですね。この枝は杉ですか?」

「そう、だよ。むかしっからのならわしなんだよ。」

大きなものだから、これに提灯をぶる下げたら、さぞかし目立つことだろう。空から見下ろしたら、平面的なクリスマスツリーがゆらゆらと光って見え、新人の仏様もすぐに我が家を探し当てることができるのだろうな。どうして杉なのか、なぜ3回なのか、聞いてもわからない。詳しくはわからなくても、先祖から受け継いでいる風習なのだ。

いや、待てよ。亡くなった人の家の前に木を置くとは、どこかで聞いたような…。

このブログで前回紹介した「イトスギ(サイプレス)の十字架」では、南ヨーロッパの昔、亡くなった人の家の前にイトスギを置く習慣があった。亡くなった直後、新盆、と違いはあるが、イトスギ、杉という常緑樹をを家の前に置くという点では類似性がある。杉を新盆につる下げるのは、抗菌性というよりはすぐには枯れないという性質と常緑樹という生命力にあやかっているのかもしれない。

遠く離れたヨーロッパと日本の福島県奥会津、杉に対する感性は不思議に似通っている。偶然みつけた人と植物に関する風習であった。

これは奥会津の昭和村でのはなし。次回の「昭和村のからむし」につづく。

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薬膳料理・冬虫夏草との出遭い

北京の薬膳料理店でのオフィシャルな会食に出席する機会があった。まだ、薬膳料理という名が日本ではなじみがない昔の時代である。中華料理店で知らないうちに食べていたことはあるかもしれないが、意識したのはそのときが初めてだろう。

会場への道中、真冬の北京は零下10数度。凍えるどころか、体の表面は痛く、骨の髄がきしむほどの日だった。そんな日でもアイスキャンディー売りの声は容赦なく響き渡り、寒さを増長する夕闇時だった。

こぎれいな場所にしようということで、雑誌にも掲載された北京でも有数のレストランに予約をとった。日本側、中国側は大きな円卓に着席し、次々と運ばれてくる絢爛豪華な品々に皆、舌鼓を打った。そのコースはかなりの金額だったと思う。

店長もわざわざ説明に姿を現した。四川省料理がベースだが、それほど辛くはなく、その当時は中流以上の客筋で、繁盛しているようだった。

和やかに会が進行しているさなか、

「このスープには冬虫夏草が入っています」

「えっ?ム、虫・・・・・」

今からずいぶん前だから、聞いたこともないその虫なのか草なのかわからない食材に、体は窓の外の世界のようにフリーズしてしまった。驚いてももう遅い。そのスープは飲み干してしまった。

その後の料理も様々な薬膳料理のメニューでおいしく、会もスムーズに終わったのだが、虫のエキスが舌に絡み付いているのだから、顔はにこやかに、しかし複雑な心境のまま帰路についた。

宿に帰ると、ぽっぽ、ぽっぽ、体の芯から暖まっているのがよくわかる。その暖かさは翌日まで結構長い間続いて、凍てつく寒さを忘れるほどだった。これぞ薬膳料理の醍醐味なのかもしれない。それからもそのレストランはお気に入りでよく通った、が、冬虫夏草はそれっきり注文しなかった。

今や、冬虫夏草といえば知らない人はいないくらいになった。サプリメントにも入っており、手に入りやすいし、その高い薬効は注目を浴びている。但し、そう安価なものではない。

そもそも冬虫夏草とはどんなモノなのか。冬は昆虫、夏は草って?

虫の昆虫や幼虫に寄生して、完全にその体をのっとって命を搾り取り、たくましく生きるキノコ類である。再び虫に戻ることはない。そのキノコはミリタリス冬虫夏草とシネンシス冬虫夏草に分類される。昆虫は日本ではセミ、蜂など数百種類、中国ではコウモリガのみに寄生するといわれる。

中国の歴代皇帝がこぞって不老長寿の妙薬と求めた冬虫夏草。誰が始めに口にしようと思ったか、昔の人は直感が鋭かったのだろう。漢方の智慧は脈々と切れることなく、後世の人間にも恩恵をもたらしている。

薬膳料理を教える学校としては、薬膳料理研究家、板倉啓子さんの板倉料理学院(富山)が日本では初めてだそうだ。1992年スタートというから、私が知らずに冬虫夏草を口にしてからだいぶ後のことである。板倉さんの薬膳ハウスというウエブでは保存剤なしの冬虫夏草入りエキスを販売している。夏バテにも効きそうである。

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イトスギ(サイプレス)の十字架

ケルト暦ツリーサークルでニレの木の次はイトスギ(糸杉、サイプレス)です。1月25日~2月3日、7月26日~8月4日生まれの人。

「この時期に生まれた人は勇敢で、不幸にあってもくじけません。また独立心が強く、行動的だといいます」木の癒し』ギーゼラ・プロイショフ著 小川捷子訳 飛鳥新社

イトスギといえば、南ドイツを旅しているときに車窓から見えた風景が印象的です。やわらかいウエーブを描くなだらかな丘に点々と、しかもひょろひょろと、もったいぶって食べて細くなった綿あめのように生えているのです。どこか懐かしい風景だと思ったのは、セザンヌやゴッホの絵によく登場する常連さんだったから。

アッシリアの首都ニネヴェのアッシュールバニバル王の宮殿から巨大な文書館が発掘され、多くの粘土板が発見されました。そこには250種ほどの薬用植物について記されていたのですが、イトスギも含まれていました。紀元前7世紀ごろですから、今から2600年以上も昔のことです。

キプロス島へイトスギをもたらしたのは、フェニキア人。キプロスはzipernというサイプレスにちなんで命名されました。

イトスギの使われ方は、人の死、墓地、冥界に関係があります。エジプトでは棺となり、ギリシア人、ローマ人は墓地にこの木を植えました。十字架はイトスギから作られていた、という言い伝えもあります。南部ヨーロッパでは亡くなった人の家の前にイトスギを置く習慣があり、棺のそばに付き添う人はその枝を持っていたそうです。

これらはギリシア神話-誤って殺してしまった鹿の墓のそばで、イトスギになった-という話から広がったようです。イトスギはモミの木と同じように緑豊かな常緑樹であり、死に対しての生のシンボルではないでしょうか。

また、イトスギはそれ自体腐りにくく、抗菌性が強いという性質があります。死者が出た家の前に置く習慣などから考えると、消臭、抗菌の効果を期待してのことかもしれません。これは日本の杉玉を連想させます。古の人は死にまつわる物理的な問題からイトスギが守ってくれることを知っていたのでしょう。

アロマセラピーで使うサイプレスのエッセンシャルオイルは、夏のイメージがあります。なぜなら、私は夏の虫除けとして必ずサイプレスと他のエッセンシャルオイルをプレンドしたスプレーを手作りしているからです。いろいろと試してみましたが、自宅近辺の蚊はサイプレスが苦手なようです。ラベンダー、シュタイゲリアナ、ゼラニウムも虫除けになりますが、地域の蚊とかけひきしながらブレンドするのも楽しいものです。化学薬品の虫除けでは吸い込みが心配ですが、手作りならより安心です。

また、サイプレスはリンパの流れをよくするので、某大手エステの痩身レシピではジュニパーの次にサイプレスは欠かせないものとなっています。2時間半のマッサージで2キロ落ちたと聞きましたが、翌日からの代謝もよくなるそうです。

その他、ホルモンに働きかけるため、更年期の多汗症に有効、むくみなどの水分調整に効果が期待されます。子供の百日咳の緩和にもよいといわれています。


ジュリークのエッセンシャルオイルはピュアな香りがします。

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高王白衣観音経の功徳

友人が電話をかけてきた。「白衣観音経のコピーある?ちょっと見当たらないんだけど」

「どうして?」

「いや、また読んでみようと思ってね。前回は千回読むのに3年かかったけど、本当に効果があった」

白衣観音経とは高王白衣観音経のことである。白衣観音さまといえば、高崎市のシンボルとして、大きな像が建立されているのをご存知の方も多いと思う。白衣、文字通り白いベールを頭部からかぶり、巻物を手にしておられる。このお経との出会いは、小原弘万氏(故人)という、般若心経を218万回読誦された記録を持つ方の著作を読んだことに始まる。般若心経読誦を最も多く読んだ人物としては、江戸時代では『群書類従』の塙保己一と読んだことがあるが、回数はわからない。

高王白衣観音経の中には「もし、一千遍を読誦し得た人がいれば、その身一身の苦難を除こう、一万遍を読誦し得たならば、一家の皆の苦難を除こう」と書いてあるという。「この経典を手に入れたいならば、自分で探すくらいのご苦労はなさることですね」と小原氏の著作にあったので、上記の友人と神田書店街へ出かけた。経典探し、と言っても近場なわけで妖怪には遭遇しなかったが、まさしく神保町はガンダーラとなったのである。運よくすぐに見つけられたが、購入したのは1冊のみで、友人は該当ページをコピーして持ち帰った。

それから友人は3年間読誦を続け1千遍を達成、確かに困難を乗り越えることができたのである。すばらしいことだ。ちなみに、私たちが得た経典中には一万遍のことは書いてなかった。

「願以此功徳、普及於一切 誦満一千篇 重罪皆消滅」 で〆ている。

一万遍、この回数を達成するのは容易ではないだろう。前述の小原氏はもちろん一万遍を達成し、喜びごとを得たそうだ。

この高王白衣観音経は短いお経といえども、ある程度の時間は要する。ケイタイ世代としてはまず、『延命十句観音経』がおすすめである。この「延命」の二語を加えたという白隠禅師はこのお経を偽経と知りながらも、その霊験から自ら読誦し、世の中にも広く勧めたという。

お経の功徳は読むものの側にあるという。空海の「仏法遥にあらず、心中にして即ち近し」

2つのお経に興味を持たれた方は、ご自分で探してみてください。効果のほどは科学的に証明できないことですが、古の昔から人々が伝承してきた智慧です。

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