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雷様とおへそ

今年の夏は例年より、雷による被害が多かったように思う。とりわけ、海岸での落雷は記憶に残っている方も多いだろう。水は電気を通しやすいため、海上の落雷は陸上より被害が大きくなる恐れがあるという。頭ひとつ分や波頭など、ほんのわずかでも高いところに落ちる。それでもあまり目立たないのは、陸上に比べて人が少ないためである。雷のエネルギーは電流が1000~20万アンペア、電圧が2百万~2億ボルトある。

「いつまでも裸でいると、雷様におへそをとられちゃうよ!」誰しもこんなことを言われた経験をお持ちであろう。どうして?親も答えられないし、考えてもわからない。昔からの言い伝え。そこへ、運悪く雷が本当に鳴ったら、あわてておへそを隠すしかないのだ。

吉野裕子氏はこの言い伝えの謎を陰陽五行によって解こうと試みられた。ご本人のサイン入りの『かみなりさまは、なぜヘソをねらうのか』サンマーク出版によると、春は自然が胎動をはじめるとき、万物が動き出すときで「木気」、雷は天上で「震動」するので「木気」。へそは人間=土気の中央にあるので土気中の土気。相剋説の「木剋土」から、木気の雷が土気のへそを狙う、と解釈されている。

また、「雷が鳴るとなぜ蚊帳の中に入るのか、については蚊帳の四隅についている真鍮の輪が「金気」のため、木気の雷に対しては「金剋木」となり、蚊帳の中に入り込めない、という。雷鳴がとどろくときに生まれた新生児はその影響を恐れて「鉄太郎」などと名づけたが、それもこのルールにのっとたものだそうだ。当時の知識層であった、寺僧や修験などから理由は説明されず、ただ「こういうときには、こうするものだ」と教え込まれていたのでしょう、と結ばれている。

陰陽五行の思想からではなく、最近の情報から解釈を試みてみたい。冒頭に今年は雷の被害が多かったと記したが、そのニュースに関連してテレビで、ある医師が「落雷にあった人のおへそは真っ黒」と説明していたというが、つまり感電でやけどを負った状態であろう。へそに抜けるのだろうか。昔の人は、落雷にあった人の焦げたおへそをみて、「おへそをとられた」と表現していたのではなかろうか。まさに、経験則からの注意報である。迷信と片付けられていることも何かの根拠があるのではないか、と探ってみるのも有意義だ。ただし、おへそを隠している暇があったら、現代の雷から身を守る智慧を身についけておいたほうが現実的である。特に夏場の雷は近づいてくるのがわかるというから、海にいる人は雷が鳴ったら直ちに水から上がり、安全な場所へ行くのが唯一の方法とされている。

雷が鳴ったら蚊帳の中へ、であるが、昔の蚊帳は化繊ではなく麻、特にヘンプ製が多かったので、その観点からすると静電気避けの意味合いがあったのではないかと思う。雷鳴のときは大気中に大量の静電気がたまり、体も不快だし、気分も不安定になりがちである。ヘンプは電磁波をカットするとも言われ、パソコンをするときはヘンプ製のTシャツを着たり帽子をかぶる人もいると聞く。また、蚊帳の中は外気より若干温度が下がるため、雷のときは蚊帳の中で、少しでもその不快感、不安感を和らげよう、という昔の人の直感が、結果的には功を奏していたのではないかと思う。

世界でも雷にまつわる神話伝承は多い。古代人にとって最も恐るべき脅威のひとつであったであろう落雷の現象は、時に神格化、尊崇して被害を最小限に食い止めようとしていた。雷の信仰としては、雷電そのものの神格化、天神、水神、山神、死霊神などの他の神の神格の属性、もしくは一機能、という2種類がある。北欧神話のトルや中国の雷公はそのものの神格化、ヘブライのヤーヴェ、ギリシア神話のゼウスなどは雷電が彼らの武器である。雷神の武器としては一般に槌、斧、弓矢、刀剣、棒、石などがあり、雷鳴の道具としては太鼓、ドラ、車などがある。雷神の形態としては、人の形が多いが、古くは動物の形が多い。蛇、龍、亀、トカゲ、鳥類、猪、牛、狸、イタチ、ネズミ、雷魚まで様々である。

中国の雷公は古くは龍蛇形と考えられていたが、のちに人の形となり、左手に連鼓、右手に槌を持ち、力士のような姿であるとされる。おそらく日本近世の雷神のモデルとなっているのではないか。中国に昔落ちた雷公は身長2丈(6.6メートル)余り、猪のような顔、長い角を戴き、翼をつけ、豹の褌を腰にまとっていたという。日本の虎皮のしましまパンツとそっくりではないか。ちなみに、日本の武士の座布団にもなる毛皮のランクは下から、鹿、三位以上が虎、殿が豹である。なぜ、日本は虎皮なのか未だにわからないが、稲妻の色彩感覚と雷鳴の音響感覚からすれば、豹よりランク下とはいえ、虎のほうがセンスが合っているような気がするが。

我が家には浅草のほおずき市で授かった、「雷除け」の三角形のお札が祀ってある。その昔、落雷のあった農家で「赤とうもろこし」を吊るしていた農家だけが無事であったことから、文化年間(1804~1818)以後に「雷除け」として赤とうもろこしが売られるようになった。ところが、明治初年に不作が原因で出店ができなかったことから、人々の要望によってこれに替る「雷除け」が四万六千日の縁日に浅草寺から出されるようになったということです。この「雷除け」は一年のうち7月10日だけに並ぶ、たった一日の期間限定札である。

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ポプラ・復活

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ケルト暦ツリーサークルでイトスギ(糸杉、サイプレス)の次はポプラです。2月4日~2月8日、5月1日~5月14日、8月5日~8月13日生まれの人。

「この時期に生まれた人は謙虚で、思いがけないことに出会っても乗り越えることができます。また、他人を受けいれ、いろいろな方面に関心があるといいます。」『木の癒し』ギーゼラ・プロイショフ著 小川捷子訳 飛鳥新社

ポプラといえば、なんといっても北海道大学キャンパス内のポプラ並木です。爽やかな青空に向かってまっすぐにそびえたち、ゆらゆらゆらゆら、ゆれるさまは本州から持ち込んだジメジメした暑さを吹き飛ばしてくれるのです。葉が陽光を受けてさわさわと翻るさまは殊更北海道のグリーンな風の気持ちよさを強調するようでした。

ところが、そのポプラ並木は昨年2004年の台風18号により甚大な被害を受けていたのです。51本中、半数以上の27本が損傷(19本倒壊、8本幹が曲折)。写真を見ると、並木に対して垂直の方向の水田にバタンと倒壊していました。被害直後、全国から支援の申し出が相次ぎ、北大側も再生に乗り出したそうです。

そもそも、2001年の段階でポプラは老朽化により、強風や天災で倒れやすいという診断をなされ、すでに倒木も始まっていました。しかし、伐採を計画する北大側と、歴史的、文化的遺産として保護を主張する市民団体がぶつかっていたということです。そして、その3年後、予想されたとおりの事態となってしまったのです。

ポプラ並木の最初の45本は明治45年(1912)に植えられ、その後の補植を経て、現在の姿になりました。成木で30m、寿命は60~70年。寿命を越えて台風の被害に倒れた木もあったでしょう。その中で建て直し可能は1~2本、クレーンで吊り上げ、並木の別の場所に移植するということですが、この30トンにも及ぶ巨木を移植するというのは世界でも稀なことであり、北大の研究機関としての挑戦の意味合いもあるそうです。北大の英知を結集した再生、といわれています。その他は若木を補植え、15年~20年後にはかつてのポプラ並木が再生する予定です。気を長くして待つしかありません。

見た目はそうそう変わらなくても、木の寿命はかなりの幅があります。巨大に成長するポプラの寿命は人間より短かったのですね。そう、ポプラは見かけほど頑丈ではなく、とてもナーバスです。木材としてはやわらかく割れやすいので、主にセルロースや合板に使用されます。樹皮もやわらかく、つぼみ同様食べられるようです。ポプラの樹液でつくる軟膏は頭痛、背中、腰の痛みに効き、芽からつくるお茶は尿酸を溶かす効果があるといわれています。

バッチのフラワーレメディーで、ポプラの仲間では「アスペン」があります。アスペンを必要とする人は、自分を守る殻をもたないで生まれてきた人、感じやすく思いやりのある皮膚の薄すぎる人、と表現されています。ポプラの葉が風に揺れるように、アスペンの性質がマイナスに表れているタイプの人の内面は揺らいでいます。周りの環境に敏感に反応し、時には一挙手一投足が気になり、神経が磨り減ってしまうのです。何かよくないことが起きるのでは、とひそかに恐れを抱いたり、不安感に襲われて震え、冷や汗をかいたり鳥肌が立ったり。けれども、恐れや不安の対象が特定できないため、人に説明することは難しい、と感じている。

アスペンを服用後は、恐怖感や不安感が薄れ、内的な自信が増す、とされています。天にゆだねる、という境地になれるのかもしれません。アスペンは泰然自若への道しるべのひとつになれるでしょうか。

ポプラは水辺が好きで、川辺に根を張り、その周りを固めます。氷河期の大氷河が融けた後、ポプラと白樺が増えたので、湿地帯に他の木が育つようになったといいます。文字通り、地固めの木といえましょう。成長が早く、巨木になりますが、その寿命は長くない。未開の地に後進のためにいち早く根を張り、役目が終わるとドーンと倒れる潔さ。アスペンの性質がプラスに表れた場合の、大胆不敵、克服、復活を連想させます。北大のポプラもきっと困難を克服し、あのすばらしかったポプラ並木を復活させることでしょう
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幣立神宮と吉見神宮

熊本空港からバスに乗り換え、雄大な阿蘇路を経て、緑深い蘇陽町へ。人里離れた森にひっそりと建つ、その洒落たホテルは午後の上品な日差しとお抹茶で私を歓迎してくれた。

1995年8月23日、幣立神宮の5年に一度の五色神祭が開かれた。幣立神宮自体、日本最古の神社で高天原、神々が降臨された場所、世界の人種が集う場所、と伝説されている。モーゼが水の珠を携えてやってきた、そばの矢部という地名はヤーヴェと関係ある、という説もある。私はその祭りに関わっている人に紹介されて訪れることになった。開かれる、と書いたがそういえば、「ヘイタテ」とはホピ語で「扉が開く」という意味だそうだ。

翌日の天気はくもり。方々からやってきた老若男女の参列者は、開会式の時間まで思い思いに境内を散策している。樹齢の古い杉が木陰をつくり、足元には太い根がはりめぐり、少し下方にある井戸は枯れていた。変わった衣装で奇声をあげている人、人の前で土下座をしている人、奇妙な風景も繰り広げられていた。

最近の祭りでは椅子が用意されていたと聞いたが、当時はおのおの敷石の上にしゃがんだり、体育座りをして開会式を待った。雲がずっと厚く垂れ込めていたのだが、始まる寸前に、境内の真上だけぽかっと青空がのぞいた。まあ、そんなものだろう。会場にはちょっとした歓声があがった。

一連の儀式が終わった後、五色神面を公開してくれることになった。その要望が相当あったそうである。五色は、黄、白、黒、赤、青。それぞれの人種を表していると言われ、白はモーゼで一番よくできているという。相当古いと聞くが年代測定はしているのだろうか?青を見せて頂いたときに人種をお尋ねすると、これは「中国の南方のクーニャン」という言葉が返ってきて、はてな印になってしまった。顔の造作からすれば、鄧小平に似ていないでもない、ということは客家か、でも、青いかな?などと瞬時に考えた覚えがある。今ではインディゴチルドレンも連想するが、現在はどう認識されているのか情報を持っていない。

帰りの方法をめいめい、ツアーガイドらしき人を捕まえて聞き、三々五々に神宮を後にしていった。私は高千穂方面に行こうとバスに乗った。過ぎ行く待合所がなかなかいい風情である、と思いつつ乗っているうちに、どうも方角が違うことに気づいた。これはまずい、といくつか先のバス停で降りたのだが、反対側のバス停がどうしても見つからない。だいたいどこなのかもまったくわからない。しかたなくとぼとぼ探していると、タクシー会社にたどりついた。ラッキー。やっと運転手さんらしき人を探して、事情を説明すると、「それでは私が連れて行ってあげましょう」というこになった。

まさに助け船ならず、助けタクシーである。幣立神宮のお祭りに来たことを話すと、その運転手さんは宮司さんご夫妻と縁の深い方ということがわかった。これには驚いた。いろいろ話してくれたのだが、地元の人は幣立神宮のために多くの人がやってきて面食らっていることを教えてくれた。静かな町へ突然移り住んできた人もいる。自分たちのささやかな、古くからの鎮守様がどうして…という感である。

九州の人でも知らない人が多いといわれる幣立神宮は、一気に全国的に有名になったらしい。恐らく、ニューエージ系、古神道系、または古代史系の雑誌等で紹介されたことによるのだろう。地元の戸惑いにも関わらず、10年たった今では精神世界系の総本山とも呼ばれている。個人で、団体でヒーリングツアーなどを組み、祭以外での参拝者も多い。

その筋では「行ってきました。」「そうですか、いいですね!私もぜひ一度行ってみたいと思っているんですよ。」という会話が繰り返される。私も何人かに聞かれ、情報を提供した。境内の掃除のために行く人、計画してもなかなか行けない人、まったく知らなかったにも関わらず、気がついたら参拝していた人、など種々のタイプがいる。

運転手さんと話しているうちに、高森の草部吉見神宮へ到着した。この神社は神武天皇の三男である彦八井耳命の子、国龍命を祀っている。祭より一足先に幣立神宮を訪れていた歌手のミネハハさんに「ぜひ行ってみてね」と勧められていたので、リクエストしたのである。幣立が陽、オモテなら、吉見は陰、ウラというように実は対になっているらしい。確かに行ってみるとその雰囲気がわかる。

さきほどまでの喧騒とはうらはらに到着したとき、参拝者は一人もいなかった。広い境内に私一人。対と知る人は少ないのであろう。

運転手さんは「どうぞゆっくりしてください。1時間でもだいじょうぶですよ。その間、タクシーのメーターを止めておきますからね。」運転手さんがここへ連れてきてくれたナイトに見えたものである。

すばらしく堂々とした杉の前に立つとほっとした。泉からこんこんと清水が涌き、バックミュージックはセミ時雨。ミネハハさんに言われたとおり泉のそばのベンチで少しの時間、瞑想をしたら、わさわさしていた気がすーっと落ち着いて、旅の疲れが軽減したかのようでもあった。運転手さんはゆったり外で待っていてくださり、その後、高千穂まで送ってくれた。

バスを乗り間違えたことによって、タクシーの運転手さんが現れ、蘇陽の人々の話を聞くことができ、また、吉見神宮へ楽に連れて行ってもらうことができたわけだ。不思議な体験である。間違えたら間違えたで、その先を楽しむのがいい。

そういえば、高千穂でも出会いがあった。夜、天岩戸開きの神楽で一緒だった女性と意気投合し、部屋に帰っても深夜までおしゃべり、翌日は一緒に宮崎まで帰ることになり、荷物を持ってもらったり、と背の高い女性のナイトだった。こんな出会いも旅の醍醐味である。

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タブラトゥーラ千客万来

タブラトゥーラのコンサートへ行ってきました。まだファン初心者ですが、この人たちの音楽は聴けば聴くほどぞっこんになります。「この人たち」と言いたくなるのは、共演者のルネッサンス・バロックの歌曲で高く評価されている波多野睦美さんが、以前「この人たちは、みなさん目立ちたがりやさんで、その中で私はどう歌うか…」と話されていたことによります。この人たちの演奏(というより、舞台)はナマで体験するとその魅力は倍増します。

いろいろなジャンル、今昔古今東西の音楽を聴きますが、このグループはなかでもユニークでしょう。今年で結成21周年とか。普段、それぞれバロックなどのメンバーですが、年に数回タブラトゥーラに変身する、というイメージでしょうか。

パンフレットには「時空を越えてやってきた世界最強の古楽器バンド」というふれこみのほか、「ヨーロッパの中世・ルネッサンス時代の舞曲の自由なアレンジや即興演奏からメンバー自身による作曲へと発展し、古楽器を使ったオリジナル曲という世界でも類を見ない独自の音楽スタイルを確立」とあります。しんみりから爆笑まで、とにかく楽しめる。

メンバーはまず、つのだたかしさん。漫画家のつのだじろう氏、音楽家のつのだひろ氏と兄弟ということで、まるで千住さん一家のような芸術一家。楽器はウード(紀元前8世紀ごろ、ペルシャで生まれたリュートの先祖)、ラウタ(ウードとリュートの中間)、リュート(ウードがヨーロッパに紹介されてリュートに、中国を経て日本へ渡って琵琶に)。陽気な今風大国主命のおなかとイチジクを半分にしたような楽器はおしくらまんじゅう!?彼が奏でる楽器たちはせつないリュートに、あるときは津軽三味線に、エレキに、琵琶に聞こえてくるのです。

北海道出身の江崎浩司さんは普段はバロックのオーボエ奏者ですが、ここでは指使いが目にもとまらぬ速さのリコーダーと、キーがなく、リードの調節が難しいオーボエの先祖のショーム。数々の賞を受賞しているそうで、その音色は非常に安定感があり、リンカーンに乗っているようです。メロディーが始まると、いきなりその世界に飛び込めます。一見静かそうですが、実はおちゃめ。そして、彼の書く文章は小粋でおしゃれ。

土浦出身の田崎瑞博さんは天使の輪っかがあるさらさら、ぴかぴかのおかっぱ頭を時にユラユラと、時にバサバサさせながら、跳ね回る弦楽奏者。普段はバイオリン、チェロですが、ここではフィドルという古い時代の擦弦楽器を操ります。バイオリンよりくびれがなくて、大きさによってチェロのように演奏するスタイルもあります。ライトの熱でチューニングが大変のようでした。彼が地面に着地すると、楽しく華麗な音楽が始まります。西欧の絵本の中からひょいと出てきた人だ。

福島出身の近藤郁夫さんが叩いているのはたこやきとは大違い、ハンマーダルシマーと中近東の打楽器タラブッカなど。中近東のサントゥールが十字軍の遠征と共に西へ伝わりハンマーダルシマーに、東へ伝わって女子十二楽坊の楊琴となりました。ハンマーダルシマーはピアノの先祖でもあります。いつも天界から光と共に降りてくるような音色に感じる。近藤さんは寡黙なマイスターのように、巧みなリズムをきざむ。メンバーの真ん中に座して、両脇の2人ずつのメンバーの支柱としてバランスをとっている、と思う。ニュートラルな人だ。

陸の恵比寿様、山崎まさしさんはギターの先祖、ビウエラを担当。普段はフラメンコギターの名手だそうです。ビウエラは16世紀にスペインで使われていたという、でも今は絵の中だけの楽器で、山崎さんのはヘッドに猫の顔を飾ってある特注品。ソフトな音と思えば、結構山椒の音が利いていました。リュートと実によくはもる。職業柄、演奏のときはあまり笑わないと紹介されていましたが、悩みがあったときは何でも聞いてくれそうな懐の深そうなおじさまです。

というように個性的な方々ですが、彼らが奏でると会場には中世のイギリス、フランス、ドイツ、スペイン、シルクロードや横須賀まで現れます。透明で奥行きが深い声の波多野睦美さんとのコラボも何百年も前にタイムスリップしたよう。ショームとフィドル、ビウエラとリュートの音色がこんなに合うとは!

ブラボーを叫ぶ練習をしてから(実は下を向きながらつのださん自身も叫んでいる)、全員総立ち(演奏者に促されてだけど)のアンコールの嵐まであっという間の充実の時間。ホールを出ると、ロビーでなんとまた演奏が始まっていました。しかもみんな踊りながら。エンターテイメント!古楽器はやはりそばで聞くのが一番。まさに音楽の喜びに満ちている人たち。このまま聴衆はこの音楽につられて、別世界まで着いていってしまいそう。特にショームを吹く江崎さんはハンメルンの笛吹きに見えました。

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壇ノ浦のその後・湯西川『平家の里』

旅の途中、ふらりと栃木県の湯西川温泉に立ち寄った。以前宿泊に来たときは、早春のなごり雪の中、マタギの里を見学した覚えがある。かなり冷えこんだ。当時はまだ高級品だったまいたけを山ほど買ったり、静かな町をぶらぶらした。

今度は真夏、深い山を潜り抜け、途中、嵐のようなスコールの洗礼を受けて到着したときは、うそのように晴れていた。いうまでもなく平家の隠れ里である。ちょうど今日はNHKの大河ドラマ『義経』「決戦・壇ノ浦」の放映日だ。この里は、壇ノ浦の「その後」の一端でもある。

平家の里を復元したという『平家の里』の冠木門はなかなかおごそかである。今は緑の覆いかぶさる木々は、秋にはさぞかしあでやかであろう。内部は太敷館(受付)、調度営みどころ(民芸品加工所)、よろず贖いどころ(生産物直売所)、床しどころ(展示館)、種種伝えどころ(郷土文化伝習館)かれいの館(お休み処)、湯西川赤間神宮(安徳天皇の菩提寺である下関赤間神宮の分祠)、鹿園、平家塚からなる。

園内を散策しているとき、琵琶奏者の桜木亜木子さんとすれ違った。江戸紫の着物に長い黒髪がたれ、白い足袋が足元の苔に映える。演奏があるのも知らなかったが、間に合わなかったのは残念である。演奏の舞台であった種種伝えどころの屏風の前には座布団がはんなり置いてあるまま。琵琶の倍音がまだまだ空気をゆらしているようでもあった。

さて、湯西川へ平家の人々がやってきた経緯。壇ノ浦の戦い後、平家は日本中に散らばっていく。平家の家臣、平貞能は小松内府平重盛の妹君である妙雲禅尼、忠房の忘れがたみを擁し、宇都宮の藤原朝綱公のもとへ落ちのびた。その後、さらに藤原の最高峰、高原山に身を隠したが、一族の婦人が男の子を出産。その折に端午の節句に鯉のぼりを立てたが、源氏方に見つかり、貞能は塩原へ、忠房公の忘れがたみ一族は湯西川へたどり着き、やっと落ち着いたのであった。これ以来、湯西川では鯉のぼりをあげず、鬨をつげる鶏は飼わないという風習が残っているという。風習の発祥にはこんな苦い経験がからんでいることもある。

『平家の里』の出口近くには、「平家塚」という一族の財宝を埋めた林がある。その塚は楡の木とイチイの木の根元にある。数多くある木々の中から、なぜこの二つの木が選ばれたのか。平家の人々は意識的に植えたはずである。

楡の木はすでに「不安に打ち勝つ・ニレの木」で掲載済みである。ぜひ参照されたい。死と悲しみのシンボルでありながら、不安に打ち勝つという幸福の木。もうひとつのイチイの木は11月に掲載する予定。西洋では墓場の木、魔物を追い払うといわれている。それは毒性が強いからであって、財宝がけものに掘り起こされたりしないように、という配慮があったのだと予想される。平家の人々も木の特性をよく知り尽くしていたのだろう。

最後に、安徳天皇のその後について追記しておきたい。従来は海に身を投げて短い一生を終えたとされていたが、今日のテレビ放映では時子が身代わりを抱いて共に身を投げた。その後、どう描かれるかは来週のお楽しみ。

ところで、安徳天皇が落ち延びたとされる伝説地は実に十数か所に及ぶ。その中でも、阿蘇の上益城郡清和村緑川地区には安徳天皇の山陵跡があるという。超古代の阿蘇朝廷時代、天照大御神の皇居があったと伝説される、日の宮幣立神宮のそばである。幣立神宮といえば、1995年の五色人面祭に参加したことがある。もうちょうど10年前だ。その折、『安徳天皇と日の宮幣立神宮』柞木田龍善、新人物往来社の増補第三版に出会った。盛大な祭りの隅で静かに並んでいた本である。

地元では800年来ずっと、安徳天皇陵として祀ってきたが、なぜ最近になってクローズアップされたか。それは昭和58年に日の宮幣立神宮で神霊者が安徳天皇の神示を受けたことに始まるという。その後、安徳天皇の御魂を祀っている山宮神社社殿屋上に安徳天皇と二位尼局と思われる姿の不思議な写真を撮られた方がおられるという。

交通はかなり不便であったが、すばらしい自然の残る蘇陽町周辺。私も不思議な体験をした。そのうち取り上げてみよう。蘇る太陽の町は超古代から平家の情報まで深く擁しているようだ。


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