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恵果と空海の青龍寺

今日は夏至、6月21日。

21日といえば、弘法大師空海の入定3月21日を連想し、6月といえば空海の生誕日6月15日を思い出す。昔は旧暦だから、空海の生まれた日は恐らく暑かったのだろう。今年は7月10日にあたっている。

そして、旧暦の6月、空海は長安の青龍寺に到着する。長安の夏は暑いが、乾燥しているため、木陰に入るとことのほか気持ちよい。1000年前は今より少しは湿潤だったかもしれない。

当時、大唐帝国は中国仏教史上において、密教全盛期を迎えていた。最澄、空海、円仁らは、そんな時代に留学僧となったのである。

どのような場所で、空海は恵果阿闍梨に密教の奥義を伝授されたのか。

何もなくても、その場所に立ってみたい。歴史を学ぶ者の特性のひとつかもしれない。

西安にいるとき、その機会がやってきた。当時はまだ歴史地理学者のたまごだった友人に、連れて行ってもらったのだ。

病み上がりだったから、その道程は詳細には覚えていない。青龍寺の前の舗装もされていないバス停で、しゃがみこむほどだった。

青龍寺、それはそれはだだっ広い、荒野だった。真夏の照りつく太陽の下、歩くたびに黄土が舞い上がる。

まだまだ、再建される準備段階の時期であった。

中ほどに、真新しい空海記念碑などが建っていた。友人が目に鮮やかな屋根を指差しながら、この形はいついつの特徴があって、と説明してくれていた。

記念碑はその前年の1982年に建立されたとのこと。新しいはずだ。

跡地にあるものはそのくらいだったが、平安の世にここまではるばる海を越えて留学されたのだ、と感慨ひとしお。

その翌年、恵果空海記念堂が竣工した。日本の真言宗寺院の室生寺の灌頂堂等の建築様式を参考にしている。堂内では、青龍寺遺址から発掘された多用な出土文物が陳列されているという。見ることができず、残念。

何年か前、テレビで青龍寺を取材した番組を見たことがある。

今や日本人観光客の一大スポットとなっているというが、修行の現場としてはどうであろうか。

青年僧が、もっと若き僧たちに「ここは、もと恵果阿闍梨のおられたところ、密教の中心、それゆえ、世界から見下されないように、しっかり修行せねば!」

修行僧も少なく、悲壮な感じすらした。

奥義は空海と共に日本へ渡っていった。

さて、その青龍寺のプロフィールとは。

前身は隋の開皇2年(582)に創建された霊感寺。文帝の長安城造営の際、予定地に散在する古墓を城街区へ移送。その鎮魂のために楽遊原の新昌坊内に創建した。

唐初の武徳4年(621)に廃せられる。

高宗の龍朔2年(662)太宗の城陽公主が『観音経』 の霊験で病が治癒したところから、廃寺跡に「観音寺」が創建された。

景雲2年(711)に青龍寺と改称。新昌坊が城内東の端に位置することから、四神の東方を守護する青龍があてられたと考えられている。

恵果は不空三蔵の高弟であった。不空は密教を鎮護国家仏教として位置づけたため、青龍寺という名称はなるほどと思わせる。

この6年後の717年、遣唐使の阿倍仲麻呂と井真成、入唐す。

724年、善無畏三蔵が請来した『大日経』が漢訳される。空海は大和の久米寺でこの経に出あい、入唐を決意する。

746年、不空三蔵が『金剛頂経』を中国に請来した。日本へ請来したのはもちろん、空海である。

ここらへんの密教全盛期に空海が青龍寺入りする。805年6月のことである。

ところが、その40年後の会昌5年(845)、武宗による廃仏令に遭い、青龍寺もその例外ではなかった。慈恩寺、薦福寺、西明寺、荘厳寺の四寺は特別に難を逃れることができた。

その翌年に廃仏令は撤廃され、「護国寺」として復活、その後青龍寺に戻る。

唐の滅亡、長安寺の廃墟化で青龍寺も廃寺。ここまで何度となく廃寺、復活を繰り返してきたわけだ。

宋代には荒野に、明代には痕跡すら残っていない。

明治に入って、何人もの日本人が青龍寺址を求め、古跡を調査したが、なかなか決定的な見解は得られなかった。

当初予想されていた祭台村の石仏寺は平地であり、眺望のよくきく高台にあったという史書の記載に合致しないのである。

その後、考古学的調査によって唐長安城の発掘が進んだことから、青龍寺址もようやく明らかになってきた。1963年、鉄炉廟村に密教系寺院が存在していたことが確認され、1972年には正確な位置が確定された。

このような歴史を見てくると、訪れた当時は荒野になってしまった廃寺の片鱗と、発掘のなごり、再建当初を体験することができた時期のようだ。

1000年の眠りから覚めた頃。

出土文物の中で最も注目するべきは、『仏説施灯功徳経』、『仏頂尊勝陀羅尼経』を刻んだ石灯台という。これで、青龍寺が密教系寺院であったことが確認された。

『仏頂尊勝陀羅尼経』は、北インドの沙門仏陀波利によって、中国にもたらされた。儀鳳元年(676)、五台山で文殊菩薩の化身である老人から上記の経を中国に請来することを要請され、インドに戻って探し当て、永遠淳2年(683)、再び長安に戻ったとされている。

唐代は密教信仰の普及に伴って、陀羅尼信仰が盛んとなったが、波利の逸話は陀羅尼信仰と文殊菩薩の聖地五台山との結びつきを物語るものでもある。

先日の「最澄と天台の国宝展」で文殊菩薩がとても気になったが、唐代の息吹を少しでも感じられたのかもしれない。

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将進酒

将進酒

               李白

君不見黄河之水天上来、

奔流到海不復回。

君不見高堂明鏡悲白髪、

朝如青絲暮成雪。

人生得意須尽歓、

莫使金樽空対月。

天生我材必有用、

千金散尽還復来。

烹羊宰牛且為楽。

会須一飲三百杯。

岑夫子、

丹丘生、

将進酒、

杯莫停。

与君歌一曲、

請君為我傾耳聴。

鐘鼓饌玉何足貴。

但願長酔不願醒。

古来聖賢皆寂寞、

唯有飲者留其名。

陳王昔時宴平楽、

斗酒十千恣歓謔。

主人何為言少銭、

径須沽取対君酌。

五花馬、

千金裘、

呼児将出換美酒、

与爾同銷万古愁。

***************************************************

中国人の先生について、原語で漢詩を朗詠する稽古を受けている。

これはもう、伝統芸能、音楽であるから、

速度、ピアニッシモ、ピアノ、メゾフォルテ、フォルテ、クレッシェンド、デクレッシェンド、テヌート・・・・

そうしてさらに情感を込める。李白はなおさらである。

高いレベルを要求されるから、なかなか難しい。

何度も何度も直してくださる。自分では違うように詠んでいるつもりでも、そう聞こえないらしい。李白は大げさなくらいがいいのだ。

歌うときは立って歌うように、漢詩朗詠も立って詠まないと、お腹から声が出ない。

当時は酒宴に呼ばれて、即興で読む。誰かが筆記したのだろう。推敲はなしということであろうか。王安石はよく推敲をしたというが。

先生は、若い頃は元気だから杜甫がよかったけれど、最近では却って気分が沈んでしまう。やっぱり李白はいいね~、と。

私も李白のよさがわかってきた。素直にいいな、と思えるようになってきた。

この大げささ、豪快さ、壮大さ、その裏で意の通りに登用されないというジレンマ。このジレンマがあったからこそ、いい詩が書けたのだと思う。

今でもよく使われる有名な部分。

    天生我材必有用、

    千金散尽還復来。

玄宗皇帝には酒宴に呼ばれるだけで、今ひとつの反応。

1300年後の私たちには、その才能が十分すぎるくらい伝わっている。

この詩は丹くん(元丹邱)の家に呼ばれたときに、李白がどんどん酔いながら詠んだものだが、名馬も、毛皮も酒に換えてしまえ!、なんて詠まれて大変である。

李白の詩は黙読するより、自分で詠むのが気持ちいいし、元気づけられる。

この詩が伝承されていて、本当によかった。

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