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重陽の節句と茱萸と菊

昨日、10月30日は旧暦9月9日にあたり、重陽の節句であった。

レストランのウエイトレスは黒いとんがり帽や耳をつけ、カボチャの風船がゆらめく店内を軽やかに舞う。

「今日は重陽の節句ねぇ。」

「え?チョーヨーの節句って何?」

無理もない。今、この節句をしている家庭はまずないだろう。

まったく世間はオレンジだらけ、ハロウィーン一色、アメリカナイズされてきているなあ、自分はすでに10数年前、雑誌に載っていたパンプキンパイを嬉しそうに焼いていたのだ、と思い出しつつ、

おもむろにカボチャムースをすくう私。うーん、なめらか。

ハロウィーンでアメリカナイズされてきた、と言っても、重陽の節句ももともとは中国ナイズである。

陽の数のなかでも最大数、つまり老陽である九が重なる9月9日は更にめでたい。一方、めでたすぎてよくない、という説もある。

実は9月9日は天武天皇が崩御された日でもあるのだ。そんなことから忌日とされ、しばらくは宮中での宴は行われなかった。嵯峨天皇の時代は神泉苑で重陽の宴を開催している。茱萸入りの袋を掛け、菊を挿した花瓶を置いて詩をつくり、氷魚(鮎の稚魚)を食し、菊酒を飲む。

ところで、中国古代では重陽の日に茱萸の入った袋を飾り、家族で野に出たり、山や高台に登って菊酒を飲む風習があった。

出典は『蒙求』(唐の李瀚が編纂した故事集、孟母三遷など有名、日本には平安初期に伝わり、当時必読の教養書)の「桓景登高」

九月九日,汝家當有災厄,急宜去。令家人各作絳嚢盛茱萸以繋臂,登高山飮菊酒,此禍可消,景如言,擧家登高夕還。

汝南の桓景(後漢の人)は方士の費長房のもとで学んでいた。あるとき、師である費長房に、9月9日におまえの家に災厄がある。早急に家人に赤い袋を縫わせ、茱萸を入れ、臂につけて山に登り、菊酒を飲めば災いから逃れることができるだろう。

上記の出典からすると、事の始まりは災厄を避けるための智慧と読めるが、後の唐詩、宋詩からはむしろ、家族を思ったり、時の移り行く様から物思いに耽る詩が散見できる。

九月九日憶山東兄弟

        王維

独在異郷為異客

毎逢佳節倍思親

遙知兄弟登高処

徧挿茱萸少一人

めでたい日になると尚更親族を思い出す。今頃、兄弟たちは山に登っているだろうなー、みんな茱萸を(頭に)挿して。一人(ボク)足りないけど・・・・。

中秋節では月を見ながら各地に住む親族を思い出す、この風習はよく知られている。節句、これは特に幼少の頃は家族で、身内で過ごすものである。そんなことから、節句の日には家族を殊更思い出すきっかけとなるのだろう。

杜牧の清明という詩がある。清明節の日、一人旅をしている杜牧は、小ぬか雨に寂しさを覚える。故郷ではこの気候のよい季節、家族はピクニックをかねて墓参りに行っているだろう。一人取り残された気分になった彼は牧童に居酒屋を訪ねる。牧童は杏子が満開の村を指差した。

詩から古代中国人たちの節句や家族に対する想いが読み取れる。

他にも重陽に関する詩は多い。

李煜の謝新恩には、高台に上ること、茱萸の実(香堕)、菊の花の香り=菊酒(紫菊気)など盛り込み、時の移り変わりと自分の心情を重ねている。

李清照の醉花陰、菊を眺めているうちに黄昏も過ぎてしまった。袖には菊の花の移り香。

重陽の季節、北はかなり寒くなってきている。私はちょうどこの頃、北京郊外の香山のリフトに乗り、突然の小雪に見舞われて震えた。

南はちょうどピクニック、ハイキングに最適だ。収穫も終わり、晩秋に入る前の自然とのたわむれ。

さて、多出している茱萸について。

現在、日本においてグミと呼ばれる種類は非常に多い。風土記では秦椒と記されているが、山椒とは異なる。山椒は「はじかみ」。茱萸は「かははじかみ」であり。呉茱萸の古名である。

中国と日本の植物で気をつけなければならないのは、同じ漢字を使っていてもまったく別のものを指すことが多いことである。中国での柏科は日本のヒノキ科、というように。鑑真が和漢薬を舌で確かめたというのも、盲目の他にも納得できる逸話である。

呉茱萸は漢方薬でもあり、中国原産の落葉の小低木、5、6月ごろに枝先に緑白色の小花をつけ、果実は紫赤色。この成熟した果実を乾燥し、これを香辛料、芳香性健胃薬の他、頭痛、嘔吐などに用いる。味はとても辛い。

一方菊の薬効は、解熱、鎮痛、消毒、頭痛、強心、眼精疲労、などで古くから不老長寿の植物とも言われている。

呉茱萸と菊の薬効の共通点は頭痛、解毒あたりである。そしてどちらも芳香がある。菊は菊酒として呑むが、茱萸は袋に入れて山に持っていくとだけあるので、実際に食べたのか、香りだけなのか、そこはわからない。わざわざ赤い袋、というからにはこれから来る冬に対抗する、陰陽五行の赤なのか、動物除けなのか、考察は限りない。

出典に登場する方士は、桓景さんの家に近く何かの病、あるいは風邪や食中毒などを予見したのかもしれない。では、なぜ、高台や山に登らなければならないのか?

高台は空気がよい、昔はどこでも空気がよいはず、といってもそこらじゅう、埃や煙は立っている。より、マイナスイオンを吸って体調を整えるか、山に登って体力をつけるか・・・。占いの結果から、高い丘に登るべきなのか。紅葉見物ができてカラーヒーリングになるのか?これも考察は限りない。

ここで、日本の重陽の節句に戻ろう。嵯峨天皇の時代では菊酒を飲んでいたが、その後は「着菊」という習慣が加わる。

9月9日の前日、菊に真綿を被せて夜露で湿らせ、9日の朝、湿った真綿で肌をぬぐうというもの。美容と長寿の効果を願ったらしい。これは菊の香りを尊んだものという。

「九月九日は、暁方より雨少し降りて、菊の露もこちたく、覆いたる綿なども、いたく濡れ、うつしの香ももてはやされたる」『枕草子』

菊といえば、能の演目に「菊慈童」がある。(観世流以外では「枕慈童」)美少年の舞が見所。

葛洪の『抱朴子』には、南陽郡(河南省)れき県の山の谷川のほとりに住む人々は皆長命であったと記されている。上流には菊の花が咲き乱れ、菊が川に落ちてその川の水が仙薬になったというのだ。

この話を題材にした能で、話は三国は魏の文帝、つまり曹操の子の曹丕の話。文帝の使いが霊水を求めて山中に入ると、菊の花が咲き誇る場所に美しい少年が住んでいた。年は700歳。周の穆王に与えられた枕に書かれている法華経の二句を菊の葉に書き写し、その葉にたまる露を飲んだところ、長命を得たという。この話は、冒頭の桓景の話よりは後世、話している内容は桓景より千年を遡る。

酒銘の菊水は『太平記』十三巻(龍馬進奏の事)における『菊慈童』という謡曲に起源を求めたそうだ。また、二次大戦当時、特攻隊の名称や尽忠報国の象徴、大楠公の家紋でもある。

ちなみに、中国河南省内郷県には菊水という白河の支流がある。

菊の霊水を解釈するに、菊の一種のハーブウォーターといえよう。14世紀、ハンガリーの王妃エリザベートは70歳を越え、リューマチに悩まされていたが、修道女の作ったハーブを使った香水を飲み、洗顔、入浴したところ、どんどん美しく若返り、ついにはポーランドの王からプロポーズされた・・・。

また、一種のフラワーエッセンス、とも言えるだろう。20世紀初頭、イギリスのバッチ博士により始められたが、その同じようなエッセンスの歴史は思いのほか古い。バッチ博士のは主に精神、魂に作用すると言われるが、古代はその守備範囲が多様ではないか。

法華経が書かれた菊の葉にたまった露、菊の花の酒と変遷してきた。葉と花、水と酒の違いはあるにせよ、植物のエキスを浸出させる、あるいは波動を液体に転写する、という行為は興味深い。

重陽の節句の話題から、中国の故事、伝説、漢詩、枕草子、能、ハーブ、フラワーエッセンスなどにまでつながった。

重陽の節句に関する古代のキーワードは、不老長寿、魔除け、茱萸、菊の花、菊酒、香り、家族、ピクニック、秋。魏の菊水の観点から読み解けば、不老長寿、後漢では魔除け、災難除け、植物の恩恵、薬効、家族の絆、季節への感性を深める節句にも発展した。

にぎやかなハロウィーンは子供達には特に楽しい。かぼちゃは身体を温め、年々メニューが増えるスィーツも華やかだ。

けれど、秋の夜長にそっと菊の花に真綿をかぶせ、翌日の朝露で顔をパッティングしてみるのも美肌に効果があるかもしれない。葉に法華経を書いてみると墨と菊の香りで癒されるかもしれない、なんとも贅沢な時間ではないか。

色づく山に登って、山のグミを眺めながら菊酒を頂く。いい季節である。

菊水の辛口と錫(すず)製チロリ

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