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安田講堂の旗

今日1月19日は、東大の安田講堂のバリケードの封鎖が解除された日という。

18日に封鎖解除が開始されたが、19日には再びバリケードが元通りになっていた。お互い根比べである。

苦戦を強いられた機動隊は弁当の受け渡しもままならず、それこそ知恵比べ。それほど投石、火炎瓶の雨がすさまじかったという。

ことの終わりのとき、学生側の抵抗はなし、当事者によるとなぜだかわからないけれど、ただただ涙が流れたということ。

悲しいときの涙にはACTH(副腎皮質ホルモン)が大量に含まれており、泣くことでストレスが解除される。どんな涙だったのだろうか。

当時、幼い私はまわりがなんとなくわさわさしていて、バリケードという言葉だけ覚えていたような気がする。大人たちが眉をひそめて話していたような。

学校から、安田講堂が遠くに見えた。それは事件のずっとあとである。

当時は旗を振っている学生がよく見えたそうだ。そう聞くと、いつも静かに鎮座しているかのように見える時計台が、体温を持って身震いするような錯覚さえ覚えた。授業に飽きたらぼっと眺めていた。

農学部の方は、バレーボール大会か何かの練習でコートを借りたりしていた。近くの運動場は転んだら破傷風になるよ、と脅かされ近寄らないようにしていた。もと馬場だったので危ないと言うのだ。もっとも予防接種をしていたのだから問題ないはずなのだが。三四郎池へは写生をしに行ったり、遊び場だった。

東大へはいろいろな用があって足を運ぶが、昨秋はぎんなんの絨毯につるっとすべりながら、「あぁ、これこそここの匂いだ。」 幼い頃の記憶が彗星のごとくよみがえった。嗅覚はダイレクトに脳につながっている。記憶や感情が鮮烈によみがえる所以である。

バリケードというともうひとつ思い出すことがある。

白川静先生は、立命館大学で鉄パイプで殴られた翌日も研究室の明かりの中にいらした。何にも勝る信念と明治生まれの気骨を感じた。

昨年、白川先生のお宅に招かれた方から、お元気との由は伺っていた。96歳というお年も。だから、10月の訃報にはびっくりしたのである。その日、ちょうど白川先生関係の本を調べていたのでなおさらである。先生の学究の姿勢は「絶え間なく続けること」、深く心に留めておきたい。

ところで、安田講堂事件の昭和44年は東大の入試がなかった。なんといっても事件は1月だ。

初めて受験する現役生は昭和25年生まれ。なぜか周りに多いのだが、あまりその時代を深く語ってくれない。皆1浪以上ということになる。運命とはわからないものだ。

昭和25年生まれのある人が、「22、23、24年生まれの後始末をしてきた感じがする。これからゆっくり思い出し、考えてみたいと思う。」そう言っていた。五黄の寅年、これから益々活躍しそうな人々である。

あの、学園紛争の主人公の世代の人達が今年からぞくぞくと定年を迎え、新たなる人生を歩み出すのだろう。自分の時間をあらためて持って、38年前の今日をゆっくり考える人もいるだろう。

その世代、自分史を出版しようとしている人が増えているらしい。還暦とはそんな年なのかもしれない。

はじめに戻る、でも同じ場所ではない。語りきれない経験をしょってたどりついた地点だ。

今日は新月、はじめに戻った。一度ひと月の総ざらいをして、また気持ち新たに出航する。

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