高野山の満天の星

ユネスコ世界文化遺産、高野山参拝。

和歌山は柿の名所である。買い食いしたあんぽ柿はほっぺたが落ちるほどにおいしかった。自然の甘さが体中の経絡をすばやくかけめぐって幸福感を伝達するようである。旅の疲れを溶かしてくれるホルモンが出るのだろう。

その柿色の夕暮れをバックに高野山が黒く鎮座しているのが見えてきた。とうとうやってきた。司馬遼太郎の『空海の風景』を読んだのはもう二昔も前のことである。

高野山へ行くことを考える前に、気がつけば西安郊外の広大な青龍寺跡に立っていた私。記念堂ができる前のこと。市内からバスを乗り継ぎ、乗り継ぎ、やっとのことでたどりついた。近くには工場。私たち二人の他は誰もいない。夏の終わりのうす曇の日であった。

阿闍梨恵果和尚と空海が1200年前に出会った場所。青龍寺についてはまたの機会に譲ろう。

そんなことを考えながら、高野山のヘアピンカーブをバスは容赦なく上っていく。右に左に体が揺さぶられているうちにあたりはすっかり墨色に。いつまでこのカーブは続くのだろう。

深い深い山の中、夜行性動物も動き回る時間である。昔、高野山では指パッチンをしたそうだが、それは虎除けのためだったという。

標高1000メートル近い高野山は金剛峰寺があるだけではなく、そこはひとつの町にもなっている。117の寺院、役場、病院、学校、郵便局、消防署、みやげ屋。奥に入るとスキー場や森林公園も。53の寺院は宿坊も兼ねている。

宿は普賢院。とりわけ施設がよいという評判だ。若き修行僧もおしなべて物腰が柔らかで、気さくである。階段に落ちている埃をささっと拾いながら案内してくれたのが印象的。きれいに掃き清められていても、人が通る限り埃は出るものだけど。

部屋は明るく、掛け軸が三幅もかけられ、調度品も重厚でとても寺院の中とは思えない。襖絵もすばらしい。宿坊のイメージを一変させられた。

精進料理はどれも繊細な味。やはり高野山のごま豆腐のなめらかさに舌はうっとり。永平寺のごま豆腐のこしと粘りとはまた違うのだ。肉魚はないが、ビール、日本酒は用意されていた。

誰もいない星降る夜の本堂前。ブッダガヤから持ち帰った石に足型が彫られている。息が止まるほど冷たくなっている。八角堂の前には大黒様。高野山には大黒様はつきものである。煌く満天の星を眺めながら静かな夜は更けていった。

お風呂も広く清潔でゆったりと入れた。冷えたからだが芯から温まった。

翌朝はそれほど寒くもなく、朝日がまばゆいほどであった。御焼香の後、仏陀の米粒ほどの舎利を拝めた。奥の院へ入る前は諸大名の墓石群。歴史上の人物の墓がひしめいている。ここは修行の山として開かれたが、今は20万基の墓があるという。信玄、吉宗、政宗、秀吉、信長・・・・。

奥の院の弘法大師御廟。手を合わせていると包み込むような大きなエネルギーが入ってきて、とたんに大きな呼吸ができて息が楽になり、すとんとリラックスした。墓石群を歩いているうちに胸が圧迫されていたのだ。確かにお大師様のエネルギーがあると感じた。

帰り道は有名企業の墓石群。アポロの形をした大きな墓石もあっった。

霊宝館は見ごたえ十分。高野山でははずすことのできないポイントである。空海の直筆の書と実際に履かれていたという草鞋をみると、いっそう空海が近く感じられる。DNAが検出できるのではないだろうか。

青龍寺から持ち帰ったという数珠。トンボ球と黄色いビードロ。大唐帝国の産物である。沢山の人の沢山の指紋がついているのだろう。

快慶の四天王。躍動感、安定感、迫力ある表情。間近にじっくり鑑賞できて贅沢である。

陝西省の玄奘三蔵の墓まで行っていながら、高野山へは行っていなかったな、という新鮮な感動を覚えた。

いつかしらそのに出られるのだろう、とうっすら思っていた。

時期が来たら空海に会えるということ。自然な流れに乗って。

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幣立神宮と吉見神宮

熊本空港からバスに乗り換え、雄大な阿蘇路を経て、緑深い蘇陽町へ。人里離れた森にひっそりと建つ、その洒落たホテルは午後の上品な日差しとお抹茶で私を歓迎してくれた。

1995年8月23日、幣立神宮の5年に一度の五色神祭が開かれた。幣立神宮自体、日本最古の神社で高天原、神々が降臨された場所、世界の人種が集う場所、と伝説されている。モーゼが水の珠を携えてやってきた、そばの矢部という地名はヤーヴェと関係ある、という説もある。私はその祭りに関わっている人に紹介されて訪れることになった。開かれる、と書いたがそういえば、「ヘイタテ」とはホピ語で「扉が開く」という意味だそうだ。

翌日の天気はくもり。方々からやってきた老若男女の参列者は、開会式の時間まで思い思いに境内を散策している。樹齢の古い杉が木陰をつくり、足元には太い根がはりめぐり、少し下方にある井戸は枯れていた。変わった衣装で奇声をあげている人、人の前で土下座をしている人、奇妙な風景も繰り広げられていた。

最近の祭りでは椅子が用意されていたと聞いたが、当時はおのおの敷石の上にしゃがんだり、体育座りをして開会式を待った。雲がずっと厚く垂れ込めていたのだが、始まる寸前に、境内の真上だけぽかっと青空がのぞいた。まあ、そんなものだろう。会場にはちょっとした歓声があがった。

一連の儀式が終わった後、五色神面を公開してくれることになった。その要望が相当あったそうである。五色は、黄、白、黒、赤、青。それぞれの人種を表していると言われ、白はモーゼで一番よくできているという。相当古いと聞くが年代測定はしているのだろうか?青を見せて頂いたときに人種をお尋ねすると、これは「中国の南方のクーニャン」という言葉が返ってきて、はてな印になってしまった。顔の造作からすれば、鄧小平に似ていないでもない、ということは客家か、でも、青いかな?などと瞬時に考えた覚えがある。今ではインディゴチルドレンも連想するが、現在はどう認識されているのか情報を持っていない。

帰りの方法をめいめい、ツアーガイドらしき人を捕まえて聞き、三々五々に神宮を後にしていった。私は高千穂方面に行こうとバスに乗った。過ぎ行く待合所がなかなかいい風情である、と思いつつ乗っているうちに、どうも方角が違うことに気づいた。これはまずい、といくつか先のバス停で降りたのだが、反対側のバス停がどうしても見つからない。だいたいどこなのかもまったくわからない。しかたなくとぼとぼ探していると、タクシー会社にたどりついた。ラッキー。やっと運転手さんらしき人を探して、事情を説明すると、「それでは私が連れて行ってあげましょう」というこになった。

まさに助け船ならず、助けタクシーである。幣立神宮のお祭りに来たことを話すと、その運転手さんは宮司さんご夫妻と縁の深い方ということがわかった。これには驚いた。いろいろ話してくれたのだが、地元の人は幣立神宮のために多くの人がやってきて面食らっていることを教えてくれた。静かな町へ突然移り住んできた人もいる。自分たちのささやかな、古くからの鎮守様がどうして…という感である。

九州の人でも知らない人が多いといわれる幣立神宮は、一気に全国的に有名になったらしい。恐らく、ニューエージ系、古神道系、または古代史系の雑誌等で紹介されたことによるのだろう。地元の戸惑いにも関わらず、10年たった今では精神世界系の総本山とも呼ばれている。個人で、団体でヒーリングツアーなどを組み、祭以外での参拝者も多い。

その筋では「行ってきました。」「そうですか、いいですね!私もぜひ一度行ってみたいと思っているんですよ。」という会話が繰り返される。私も何人かに聞かれ、情報を提供した。境内の掃除のために行く人、計画してもなかなか行けない人、まったく知らなかったにも関わらず、気がついたら参拝していた人、など種々のタイプがいる。

運転手さんと話しているうちに、高森の草部吉見神宮へ到着した。この神社は神武天皇の三男である彦八井耳命の子、国龍命を祀っている。祭より一足先に幣立神宮を訪れていた歌手のミネハハさんに「ぜひ行ってみてね」と勧められていたので、リクエストしたのである。幣立が陽、オモテなら、吉見は陰、ウラというように実は対になっているらしい。確かに行ってみるとその雰囲気がわかる。

さきほどまでの喧騒とはうらはらに到着したとき、参拝者は一人もいなかった。広い境内に私一人。対と知る人は少ないのであろう。

運転手さんは「どうぞゆっくりしてください。1時間でもだいじょうぶですよ。その間、タクシーのメーターを止めておきますからね。」運転手さんがここへ連れてきてくれたナイトに見えたものである。

すばらしく堂々とした杉の前に立つとほっとした。泉からこんこんと清水が涌き、バックミュージックはセミ時雨。ミネハハさんに言われたとおり泉のそばのベンチで少しの時間、瞑想をしたら、わさわさしていた気がすーっと落ち着いて、旅の疲れが軽減したかのようでもあった。運転手さんはゆったり外で待っていてくださり、その後、高千穂まで送ってくれた。

バスを乗り間違えたことによって、タクシーの運転手さんが現れ、蘇陽の人々の話を聞くことができ、また、吉見神宮へ楽に連れて行ってもらうことができたわけだ。不思議な体験である。間違えたら間違えたで、その先を楽しむのがいい。

そういえば、高千穂でも出会いがあった。夜、天岩戸開きの神楽で一緒だった女性と意気投合し、部屋に帰っても深夜までおしゃべり、翌日は一緒に宮崎まで帰ることになり、荷物を持ってもらったり、と背の高い女性のナイトだった。こんな出会いも旅の醍醐味である。

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高王白衣観音経の功徳

友人が電話をかけてきた。「白衣観音経のコピーある?ちょっと見当たらないんだけど」

「どうして?」

「いや、また読んでみようと思ってね。前回は千回読むのに3年かかったけど、本当に効果があった」

白衣観音経とは高王白衣観音経のことである。白衣観音さまといえば、高崎市のシンボルとして、大きな像が建立されているのをご存知の方も多いと思う。白衣、文字通り白いベールを頭部からかぶり、巻物を手にしておられる。このお経との出会いは、小原弘万氏(故人)という、般若心経を218万回読誦された記録を持つ方の著作を読んだことに始まる。般若心経読誦を最も多く読んだ人物としては、江戸時代では『群書類従』の塙保己一と読んだことがあるが、回数はわからない。

高王白衣観音経の中には「もし、一千遍を読誦し得た人がいれば、その身一身の苦難を除こう、一万遍を読誦し得たならば、一家の皆の苦難を除こう」と書いてあるという。「この経典を手に入れたいならば、自分で探すくらいのご苦労はなさることですね」と小原氏の著作にあったので、上記の友人と神田書店街へ出かけた。経典探し、と言っても近場なわけで妖怪には遭遇しなかったが、まさしく神保町はガンダーラとなったのである。運よくすぐに見つけられたが、購入したのは1冊のみで、友人は該当ページをコピーして持ち帰った。

それから友人は3年間読誦を続け1千遍を達成、確かに困難を乗り越えることができたのである。すばらしいことだ。ちなみに、私たちが得た経典中には一万遍のことは書いてなかった。

「願以此功徳、普及於一切 誦満一千篇 重罪皆消滅」 で〆ている。

一万遍、この回数を達成するのは容易ではないだろう。前述の小原氏はもちろん一万遍を達成し、喜びごとを得たそうだ。

この高王白衣観音経は短いお経といえども、ある程度の時間は要する。ケイタイ世代としてはまず、『延命十句観音経』がおすすめである。この「延命」の二語を加えたという白隠禅師はこのお経を偽経と知りながらも、その霊験から自ら読誦し、世の中にも広く勧めたという。

お経の功徳は読むものの側にあるという。空海の「仏法遥にあらず、心中にして即ち近し」

2つのお経に興味を持たれた方は、ご自分で探してみてください。効果のほどは科学的に証明できないことですが、古の昔から人々が伝承してきた智慧です。

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