三陸地方の言い伝え

三陸地方の言い伝え

津波が来たら、てんで(こ)に逃げろ!

地震が来たら海から離れて高台に上る。

奥尻島の津波は凄まじく、恐ろしかった。

以来、ニュースでは地震発生後、津波に気をつけて下さい、

と繰り返すようになった。

逃げる距離より、高台が命を守る。

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の事実に基づく創作

『生神様』の「稲むらの火」小学国語読本、尋常科用

昭和三陸地震(昭和8年)の生存者(4人)からのメッセージ

岩手県宮古市重茂(おもえ)半島姉吉地区、海抜60mの

場所にある石碑「大津浪記念碑」(縦150cm、横50cm)

にはこう刻まれている。

高き住居は児孫(じそん)の和楽(わらく)、

想え惨禍の大津浪

此処より下に家を建てるな

12世帯約40人がこの言い伝えを守って全員無事。

津波は石碑の50m手前で止まった。

道路工事の拡幅工事の際、撤去させず、数m高い位置

に移したことも幸いだった。

今回の東日本大震災では、

昭和35年のチリ沖地震の津波到達地点のプレート、

「チリ地震津波水位」を乗り越えてしまった。

それよりずっと内陸にプレートを建てるべきだろう。

誰かが語り継がなければならない。

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稲むらの火 語り継ぐべきこと

母に、小学国語読本、尋常科用に掲載されていた

稲むらの火」を知ってる?と聞いたら、

「知ってるわよ~知らない人はいないね」

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の『生神様』出典ということ

は知らなかったという。

習った時どんな感想をもったかと聞くと、

「偉い人がいるもんだなあ、と思った」

津波が怖い、というようには捉えなかったようだ。

生神様に焦点をしぼった授業だったのだろう。津波が来な

い地域の少女には想像もつかないはず。

八雲は明治29年(1896)、三陸沖地震津波の恐ろしさを

リアルタイムで知っていた。そこで、江戸時代末期の

安政南海地震の実話を翻案して『生神様』を著したので

ある。

実話の人物は濱口儀兵衛、35歳。安政南海地震の際、

漂流者に安全な場所を知らせるために稲むらに火を

放った。

『生神様』の主人公は濱口五兵衛、老人。

これは、ただ事でない

とつぶやきながら五兵衛は家から出て来た。今の地震は

別に烈しいといふほどのものではなかった。

五兵衛の家は高台にあり、波が沖に引くのがはっきり見えた。

(ニュースで北茨城の人が「波が引いた時は海水はカラに

なったんだ。船はそのとき倒れて、津波が来たときは水の中

で二回転したんだよ)

このとき、五兵衛はとっさに、

「大変だ。津波がやって来るに違ひない。」

と思った。八雲が五兵衛を老人に設定したワケがわかる。

偶然にも、この「稲むらの火」は主人公の「つぶやき」

から始まる。一人完結のつぶやきだから誰にも聞こえない。

下の村では、祭りの準備で地震にも気づいていないようだ。

五兵衛は考えた。稲むらに火をつけてみんなに知らせよう。

つぶやきは「稲むらの火」となって勢いよく燃え盛った。

山寺ではこの火を見てすぐに早鐘を突き出した。

「火事だ。荘屋さんの家だ。」村の若い者が急いで山手

へかけ出した。続いて老人も女も子供も・・・・

ここらへんで、荘屋さんである五兵衛が慕われているの

がよくわかる。

村人全員=400人が高台に終結したそのとき、

「見ろ。やって来たぞ。」

海水が絶壁のやうに目の前に迫ったかと思ふと山がのし

かかってきたやうな重さと・・・・・・

一同、波にえぐり取られて何もなくなった村をただあきれ

て見下ろしていた。

荘屋さんの家が火事だと思って駆けつけた村人たちは

その一致団結の心によって救われたのである。

何よりも五兵衛の機転、年の功。

地震が来たら津波が来るかもしれない。

高台に駆けのぼること。

ラフカディオ・ハーンの『生神様』の「稲むらの火」

昭和12年から22年まで小学国語読本の教材。

2011年、70年以上母の心に生き続けていたこの話。

今日初めて本人から直接聞くことができた。

孫子の代まで語り継ごう。

と書いとき、

グラッと地震、ピカッと稲光、ゴゴッと雷鳴、

そして、放射性物質を含む雨ザーザー。

まだまだ予断を許さない。

共有したつぶやき、ツイッター、

多くの機転、智慧の共有。

孫子の代まで語り継ごう。

参考:気象庁

http://www.seisvol.kishou.go.jp/eq/inamura/p6.html#hikaku

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地震雲情報メモ

1か月ほど前から、いつもより雲の形が気になっていた。

こんなに飛行機が飛んでいたっけ?と思うほど、飛行機雲の

ような長細い雲を多く目にするようなったからだ。

しばらく眺めていても消えない。これは何だろう、と。

日がたつにつれ、雲の太さも増していったような気がする。

今回の東日本大震災で、地震予知情報を集めるようになったが、

その中でも気になるのは地震雲

私が見ていたのは帯状形地震雲に似ていることがわかった。

これは目撃情報の多いポピュラーな形だ。

小学生のとき、先生が不在で自習をしているとき、ふと窓の外

を見ると夕方でもないのにオレンジ色がかった雲の色。とても

不気味に感じ、いきなり立ち上がって、「地震が来る!!」

と叫んだのだ。

静かにそれぞれが勉強していたので、みんなは眼を丸くした。

それから5分後、突然、グラグラ揺れて教室内は騒然となった。

その頃、地震雲、空の色の変化など何も知らない。

ただ、そう感じただけ。今思えば、子どもの直感である。

的中に驚いたクラスのみんなと、地震の発生と雲には何らか

の関係があるらしい、との話をした記憶がある。

今回、地震雲を調べていて、小学生の私が見たあの雲は

ウロコ状に乱れていたので、揺れがそれほど大きくなかった

のだろう。長い年月を経て疑問はやっと晴れた。

さて、地震雲博士と言えば、上出孝之氏である。

(北陸地震雲予知研究観測所所長)

2003年の十勝沖地震、2004年のスマトラ沖地震を予想し、

2008年の四川大地震のときも見事に的中したという。

遠く離れた地域のことを日本で見えた雲で判断できるという

のは、積み重ねられた膨大な資料、経験によるものだろう。

地震の前兆に関する掲示板を見ても、気象的に見て普通の

雲なのか、どちらの方角なのか、判断することは難しい。

この地震雲鑑定には、やはり専門的な知識が必須であるよう

である。せっかく全国各地の地震雲の写真が集まっているの

だから、そろそろ公にも科学的に分析してもよいのではないか。

地震雲のパターン、研究中だそうです。

断層形、波紋形、放射状形、稲穂形、帯状形、肋骨状形、

さや豆形、弓状形、たつ巻形

参考

地震雲掲示板HP(http://kumo.j-jis.com/cloud/index.html

地震雲の基本形HP(http://www.seismology.peaman.jp/cloud.html

地震雲に関する過去のニュースHP

研究が進めば、気象予報士の試験に組み込まれたり、

一般人にもある程度分析できる時代が来るかもしれない。

自然を注意深く観察すれば、メッセージを発していることに

気づけるのである。

そのためには古の智慧と現代科学のコラボレーションが

今の時代には必須である。人間が自然の脅威に対して

謙虚さを忘れ、人間自身の動物的本能、直感が薄れてし

まった現在、科学の実証が目安になるからである。

現象の収集、分類、分析、そして科学的実証。

現代人は科学的実証データがないと、なかなか納得でき

ないし、信用もしない。

大気イオン、電磁波などの変化は動物たち、テレビ、携帯

電話、家電製品が教えてくれる。実際、様々な電波障害が

出ている。

地震の数日前、茨城県に座礁した多くのカズハゴンドウ

クジラ。漁民たちに、古からの伝承は残っていなかったの

だろうか?

地震の数日前、仲間と集まっていてこの話題が出たとき、

地磁気が変化しているのだろうか、何かを知らせているの

だろうか?という話題まではきた。

地震後、オーストラリアにまたクジラが座礁している。

動物たちのメッセージにはもっと注目してもいい。

人間の体感も参考になるだろう。敏感な人には様々な

症状が出ている。耳鳴り、頭痛、肩こり、しびれ・・・・

自分の変化を見過ごさないことである。

虫の知らせも、むやみにもみ消さない。

その他、井戸水の水位の変化など、身の回りの変化も様々。

1983年、三宅島は三七山が長いこと爆発していないという

ので、なぜか「今行かなければ行けなくなる!」と思い、旅先

に決めたことがあった。行ってみると、爆発の前には色が

変わると島の人が教えてくれた新澪池は確かに白濁して

おり、いやな予感がした。村の人たちはかなり分かっていた

のだろう。

その7ヶ月後の秋、火山は爆発。

春、三宅島旅行に同行したメンバーたちは、皆驚いた。

私が言ってた通りだと。でもまさかこんなに早いとは・・・

美しかった新澪池は、2000年の水蒸気爆発のときに一瞬

にして干上がったという。

三宅島に行きたいという欲求は虫の知らせ?

おかげで、美しい緑、池、お腹の赤いアカコッコのさえずり

を堪能することができた。今は野原の新澪池跡、水はない

けれど、時が修復する大自然。

人の心は時の経過と支えあうパワーが必要。

今回の大震災が、多くの人のハートを開いた。

つながりの尊さを再認識させた。

無条件の愛、継続できますように。

自然のメッセージを読み解き、自分の直感をもっと信じ、

つながりを大切にしようと思う冷え込む春である。

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延命十句観音経 カレージア編集

『延命十句観音経』はシルクロードあたりで生まれ、

仏教の教えをわかりやすく伝えた偽経とされています。

それでも永らく伝承されてきたのは、ご利益、霊験の

報告があとを絶たないからです。

わずか42字のこのお経を最も推奨したのが、

臨済宗、中興の祖、白隠禅師です。

「延命」の二字を冠したのが白隠禅師。

何度も読誦していくうちに心が落ち着いてきますよ。

『延命十句観音経』

観世音    かんぜおーん

南無仏    なーむぶつ

与仏有因   よぶつうーいん

与仏有縁   よぶつうーえん

仏法僧縁   ぶっぽうそーえん

常楽我浄   じょうらくがーじょう

朝念観世音  ちょうねんかんぜーおん

暮念観世音  ぼーねんかんぜーおん

念念従心起  ねんねんじゅうしんき

念念不離心  ねんねんふりーしん

【訳】

観世音

仏に帰依したてまつる

仏と因あり

仏と縁あり

仏と法と僧との縁によって

常・楽・我・浄の四徳を得ん

朝な朝なに、観世音を念じ

夕な夕なに観世音を念じ

念念、心より起こり

念念、心を離れず

カレージア(香麗志安)編集

参考『観音さま入門』大法輪選書

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ぐるっとパス 文化はめぐる

ここ半月ほどで訪れた美術館・博物館

☆松岡美術館 フランス印象派・新印象派展

お目当ては企画展ではなくて1Fの仏像、台座の意匠を調査中。思わぬ発見があった。

2F、ガラス張りの奥にルノアール。あの作品はここにあったのね。ゆったりした時間の流れる、しっとりした美術館である。

☆東京都庭園美術館  舞台芸術の世界 ティアギレフのロシアバレエと舞台デザイン

昭和33年に建てられた旧朝香邸 アールデコ様式

何度来ても、その佇まいにほっとする。ロシアバレエ衣装の奇抜さに目からウロコ。この美術館だからこそ、この展覧自体がさらに立体化する。周りの雰囲気とマッチするのだ。ピカピカの壁や床には似合わない。

☆大倉集古館 アジアへの憧憬

道教系神像があるのが、ここの特徴でもある。仏像からの影響もおもしろい。

今回は夾苧技法で製作された、大きな大きなたらいが目を引いた。夾苧技法とは、木などの型の上から麻布を何枚も貼り重ね、漆の乾燥後に型を取り去るもの。苧とは苧麻のこと。このたらいのような器の漆と朱の模様がいかにも戦国時代っぽくていい。使用法は特定できないが、たぶん湯船。ゆったりは入れただろうなぁ。お湯を青銅器で沸かして、くんで、くんで、結構大変。今度、先輩に聞いてみよう。

龍泉窯の青磁で興味深い形を発見。宋代の復古主義を髣髴とさせる。

ここは、しーんとしてどんな小さな音も響いてしまうけど、置いてあるものが渋くてお気に入り。

☆泉屋博古館 花鳥礼賛 日本・中国のかたちと心

沈南蘋の影響がこんなに大きかったなんてー。スケールが大きい。

若冲の生き物、鳥はやっぱりいい。椿椿山の玉堂富貴・遊蝶・藻魚、これは天保11年だから1840年。150年前とは思えない感性だ。

林巳奈夫氏は残念ながら、2006年1月にご逝去。あの粋で快刀乱麻な文体も好きだ。青銅器を見ることができるようになると、他の世界の古陶、青銅器までいきなりいきいきと輝いて見えるから、不思議。

二部屋の間のソファに座ると根が生える。お茶飲んで水飲んで・・・。

☆国立科学博物館  インカ・マヤ・アステカ文明展

7月から8月で20万人突破!!ということで、避けていた。金曜日の夕方は穴場である。今回驚いたのは、若者が多いこと。スピリチュアルの世界でマヤ暦も有名になったからだろうか。私がマヤ暦を知ったのは10年以上前だし、ホゼ・アグエイアス夫妻の講演会に参加したのもだいぶ前だ。

この3文明セット、しかもそのプレ文明も少々紹介されているという展覧会はまず初めてだろう。しかも日本初公開のものも多い。

マヤもいろいろな段階があったわけで、マヤ暦から想像する神秘的な面だけでは全体像が見えない、しかもこの昨今、スピリチュアル的に強調されすぎている。そんな中、この展覧会でイメージが変わる人も多いかも。しかし、絵文字を解読している学者たちの努力には敬服する。

インカの黄金は、最近その前の文明のものが多いといわれている。スペイン人が掠奪して祖国で溶かしてしまったけれど、墓の副葬品から推測することが可能になった。

戦争は儀式でもある。アステカの血なまぐささも現代の感覚でとらえては不可解なばかりだ。歴史を読むにはその感覚をはずさなければ先に進めない。それにしても、つい数百年前の事実なのである。

青銅器や紋様に詳しくなると、この三文明の遺物も何倍も楽しめる。その他も新しい発見がたくさんあり、これは参考になりそうだ。

☆東京国立博物館  京都五山 禅の文化

ここも平日昼間は込んで仕方がないが、やはり金曜日の夕方以降は、まともに入れる。

入魂の禅僧の像はまさに、入魂。並々ならぬ存在感を感じた。そのまま立ち上がって喝!と吼えられそうである。ご生前の本物のオーラは推して知るべし。。。

朱印状は初めて見たかもしれない。大きい。ポスターのようだ。こういう外交文書は相国寺や南禅寺の僧侶が書いていたそうだ。中国帰りのインテリたち。道元の曹洞宗とまた役割が違う。彼ら京都五山の僧侶たちは、宗教、文化、そして外交の要を握っていた。要チェックの集団である。

永楽帝からの文書の地模様に龍、これがまた風格があるのだ。8世紀にすでに一般では使ってはいけない模様を詔している。シルクロードからわたってきた模様もそれぞれの民族の好みで取捨選択され、独自の発展を遂げ、それがまた逆輸入したり、互いに影響しあっている。昔はアイデアを盗むなど毛頭なく、文化を吸収して(マネして)、新しい文化を生み出していく。日本のマネの文化はこうしたシルクロード文化の特徴を有効利用した形なのだろう。今の偽ブランド問題も、案外このルートと関係があるのかもしれない。昔プレゼントしてもらったドナルドダックのぬいぐるみは、実はまったく同じ顔ではない。つり目なのである。

というわけで、今度こそぐるっとパスをうまく利用しようと、時間を作って足を運んでいる。久々に山種と出光などにも近く行くつもり。速水御舟のバラのスケッチのはがきをみつけて、最近はおしゃれな商品にしている、とつくづく思う。

行けば行くほど、今まで何をみていたんだろう、と後悔する。テーマがはっきりすると見方も見るところも格段と違うのだ。そして、もっともっと数を見なければ、と気が引き締まる。いろいろな発見があるから面白い。

昨日は小澤征爾氏一色の日だった。13時から1時まで。

この春に、ジュニア用のワーグナーのタンホイザー聴きにいったら、気づくとふくらんだ真っ白頭の指揮者が振り返って、

「明日の出だしの練習するんで、あとからちゃんとした人くるから」

とは、なんと小澤征爾氏であった。企画側のサプライズなのだったのか?会場がザワザワした。そこら中ケイタイでシャッターを押している。最後まで一緒の空間で鑑賞。

中学生くらいのときに、まだ髪の毛が黒々として白いとっくり襟姿の指揮を拝見したのがたぶん初回だ。

昨日、1980年代に米国が製作した「OZAWA」というタイトルのテレビ番組も放映されたが、その中で彼はヨーヨー・マ氏と東洋人が西洋の音楽をやることについて、と語り始め、そこで撮影を中止してもらった。個人的な話なんだから、と。

デュティユーが『瞬間の神秘』の中で登場させた、ハンガリーの楽器、ツィンバロムを見たとたんに、ヨーロッパのハンマーダルシマー、イランのサントゥール、中国の楊琴を連想する。

孤立した文化を探す方が難しいのではないか。どこかでつながっている。

昔からの各民族間の往来、これもいろいろ、

文化は人の手を離れてもアメーバのように形を変え、

それを言ったら、700万年前のトゥーマイは全世界のご先祖様。

楽器も音楽も誰が奏でようとかまわない。楽器は文化の詰まったツールだ。

調合することで、新しい文化がまた生まれ、うまくいけば効果は何倍にもなる。

サイトウ・キネン・オーケストラのミックスされ、透き通ってパワフルな音色は魂に響いた。

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スカラベと金印

上野の国立博物館へテクテク歩いている途中、時間がないと思いつつも右へ緩やかにカーブし、両足は階段を下りていた。

大英博物館 ミイラと古代エジプト展 

来週までか。え? 事前予約?何、本日チケットあります?

まぁ、いいや、と軽い気分でチケットを買う。以前、2ヶ月限定のぐるっとパスを買って結局ぎりぎりもとを取ったくらいで過ぎ去ってしまったので。

それにしても、以前は500円玉でおつりがきたのに、改築して特別展を開くようになってからはぐっとお高くなった。ミュージアムショップはフリーパスだったので、展示は見なくても時より立ち寄っていた。鉱物など質のよい掘り出し物があったのだ。それも今では入場料がないと入れない。

入場すると、シアターを見る人の長蛇の列である。見ない人は中の係りに言ってくださいということだったので、その旨伝えると、

「ご覧にならないと、半分は過ぎてしまうことになりますが・・・」

システムがよく理解できていなかったのだが、とりあえず入場者はシアターでスクリーンを見ながら一通り説明を受けて、それから実際の展示室へはきだされるらしい。シアターの時間を前もって調べてきている人ならいいけれど、行き当たりばったりの人は待たされる。チケットを見たら「混雑状況により万一入場できないときはご了承ください」と書いてあるので、これでは見たい人は「半分」損することになるのではないか。

座れるまで10分、始まるまであと10分。上映時間は30分。そんな余裕はないので、先を急ぐと、今度はシアターの中を通らないと次へ行けないという。真っ暗な中、まるでコンサートに遅れたオーディエンスのように懐中電灯に足元を照らされながら次の間へ出た。

他の美術館や博物館のように独立した開放系のルームで映像を流しっぱなしにするなど、もう少し工夫してもよいのではないかと感じた。これでは何十分待ちかのアトラクションのようである。

展示は古代エジプトの死後の世界観、動物は神の化身、という当然のことながらミイラ関係の題材が多い。器の説明はまあわかる。しかし、香料などは固有名詞さえも明記していない。臓器はいいとしても、その他入っていたものを想像できれば、さらに現実味が増すのに、と思いつつ。そのため、詳しい映像を見てもらうのかもしれないが。

最近は先端テクノロジーにより、ミイラを損壊しなくてもかなりのことがわかるようになってきたという。だから、内部の骨の写真など今までにはない展示方法だったと思う。麻の包帯の上にスカラベがのせてあり、これは文字や絵で見るよりわかりやすい。昔の人は模様や鉱物や絵文字などで魔よけや願いをどうにか通じさせようとしていたのがわかる。

ミイラのこの時代で、殷の前の夏文明よりさらに古いのだから、エジプト文明の悠久さに気が遠くなる。彼らはどうにかして遺体を完全に保とうと四苦八苦した。ミイラ作りにも上中下があるものの。先日のテレビではツタンカーメンの左足の怪我について検分していた。時代は変わったものだ。

さっと科博をあとにして、メインの国立博物館の「悠久の美」に行った。2003年に北京市内の中国歴史博物館と中国革命博物館が統合して生まれた、中国国家博物館の生え抜きの所蔵品だそうだ。歴史博物館は何度が足を運んだが、広くて一度ではまわれない。スポットライトなどなく、その日の天候に左右される自然光。人もほとんどいなくて、ゆったり見ることができた。展覧品も普段着の顔でざっくばらんに並んでいる。

ところが、今回特に感じたことがある。青銅器が磨きこまれているのだ。最近の文化財保護は進んでいるから、いろいろな過程を経ているのであろう。高級古美術である。

今まで見てきたのは緑青や土ホコリもかぶっているような、出土品の履歴を感じさせるものであったが、超およそゆきでピカピカである。なんだかさびしくもあるが、これは使っていたときの生き生きとした一面も見ることができるような気がした。

今回、厳選した61点ということであるが、確かに歴史概説書に白黒で掲載されているものが多い。その筋の人が見れば、スゴイ、というものが来ている。今まで見たことがあるものもあるかもしれないのだが、こう磨かれてスポットライトがあたっていると何割り増しかに見えてしまう。

先史時代から漢代くらいまでの見所は、まずは渦巻き模様であろう。縄文やケルトも髣髴とさせる、ぐるぐる模様は次第に複雑に、時に四角張っていろいろなバリエーションに進化していく。説明書きに神霊の霊気を表しているのか、とあった。羊や牛やトラの体にまで模様があるのは、いろいろ意味があるが、昔の刺青も思い出す。現代アートにまでつながりそうである。

先ほどはミイラの保存科学を見学したが、中国ではまた死後の世界観が違う。金縷玉衣の中は確かに密閉性が高く、数百年は生きたままを保ったと言われているが、2000年はもたなかった。遺体は土に返って、魂は天に上る。古代エジプトとは考え方が違う。始皇帝はこの方法で埋葬されていると考えられている。この金縷玉衣は三国時代魏の曹操によって、禁止された。ずっと禁止されていなかったら、曹操や玄宗皇帝の金縷玉衣にもお目にかかれたかもしれない。

形は漢代までは非常に写実性を追求している。兵馬俑など、モデルに生き写しなのだろう。犀尊はすばらしかった。この質感、重量感、2000年以上の時間など吹っ飛んでしまう。

戦国時代の曽侯乙墓出土の大尊缶(だいそんふ)は想像していたより、ずっと大きかった。高さ124センチ以上。なみなみと酒が入っていたのだろうな。曽侯乙について書いたら長くなる。今も音が鳴る巨大な古代楽器が有名だ。それを奏でていた楽人たちは殉葬されてしまったけど。

そばの白髪のおじいさんが「やっぱり、酒だね~昔から酒は欠かせないんだ!」なんて話していた。

で、どんな酒?なんてその先までは考えないのかも。中に入っていたものの説明には一切触れず。酒の種類の名前は確かに見たこともない漢字ばかりだし、この先書くこともない字だから、ここにもあえて書かないけれど、確かにその時代の酒が入っていたのだ。

やっぱり酒だね~なんて言われても、その時代は3人以上でお酒を飲んだら罰則だし、酒を飲めるのは特別の祭祀のみ。許可制なのだ。

殷の酒池肉林の逸話も思い浮かぶ。日にちがわからなくなるまで飲み続けたという。

発見された酒酵母で一番古いのは殷代。液体としては漢代の酒がつい数年前に発見されている。ビンテージどころではない。

出土品中心の展覧会で面白いな、と思うのはそれぞれの人がそれぞれの関心事で見ているということだ。その日は高齢者の方のご夫婦が多かった。大部分がなんとなく、興味があるから、と新鮮な驚きがあって、その素朴な感嘆の声がこちらも新鮮に聞こえたりする。

古美術関係の人も多いと思う。目が目利きなのだ。なめるように見回している。ただ、古美術店に行って一番困るのは出土地と出土年代がわからないこと。わかっていたらそこにない。最近は盗掘品が増えている。形によって時代はある程度特定できるものの、保証はない。この分野では、時代や時代背景より、色、形、状態の方が興味があるのだ。

歴史系の専門家は特別枠だったり、あるいは生徒やカルチャースクールの方と時間外に訪れる方もあるだろう。

漢代以降は、陶器などはデザイン性が高くなり、小型化し、金銀細工は非常に技術的になっていくる。祭祀とは離れ、貴族などの嗜好品の一種、美術品化していく。

雲南省の祭祀場面貯貝器(前漢)は圧巻であった。子安貝などを入れる円筒形の青銅器で、32センチほどの円形のフタの上に、なんと合計129人のミニチュアの人間と動物が乗っているのだ。3Dの祭祀場面であり、まあよくもここまでぎっしり作ったものである。ガヤガヤとざわめきが聞こえてきそうだった。ここの王は戦国楚の出身だから、どこかしらにその文化が残っているかもしれない。

そうそう、この国王が漢王朝から授かった金印(上に蛇がとぐろを巻いている)が、かの有名な倭の奴国の王に授けた金印(福岡市博物館蔵)とそっくりなのである。駱駝や亀を基本とする漢代からすれば、この二つの僻地の国王に送った金印の共通性に何かのなぞが隠れているらしい。後漢と倭の関係は詳しくわからないだけに興味深い。戦国時代に滅びた国の言葉が日本で生き伸びていることも確かにある。

金印については小学校でも教えるけれど、「もらった」「ふーん」「金だ」で終わってませんか。

これは、中国の内陸の洛陽まではるばる朝貢に行って授かっているのだ。日本で授かったのではない。

鑑真の時代でさえ、日本へ来ることはあんなに大変だったのに、それより700年前に、日本のクニは争うように後漢の後ろ盾を得ようと、大陸へ渡っているのだ。もっとも鑑真の時代は制度の都合により、海流に逆らう時期にわざわざ出航しているのが問題だが。

つらつら時代背景や出土品の使い方を考えたり、あれとこれは共通点があるよね、新たな発見があったり、充実した時間を過ごせた。過去とはいえ、そこから得る智慧は計り知れない。史実の他にもあの完成度の高い出土品に出会って、インスピレーションを得るクリエイターがいるかもしれない。でも、人の歴史とは変化があった面も退化した面もあるし、全然変わっていない面もあるのが面白い。

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重陽の節句と茱萸と菊

昨日、10月30日は旧暦9月9日にあたり、重陽の節句であった。

レストランのウエイトレスは黒いとんがり帽や耳をつけ、カボチャの風船がゆらめく店内を軽やかに舞う。

「今日は重陽の節句ねぇ。」

「え?チョーヨーの節句って何?」

無理もない。今、この節句をしている家庭はまずないだろう。

まったく世間はオレンジだらけ、ハロウィーン一色、アメリカナイズされてきているなあ、自分はすでに10数年前、雑誌に載っていたパンプキンパイを嬉しそうに焼いていたのだ、と思い出しつつ、

おもむろにカボチャムースをすくう私。うーん、なめらか。

ハロウィーンでアメリカナイズされてきた、と言っても、重陽の節句ももともとは中国ナイズである。

陽の数のなかでも最大数、つまり老陽である九が重なる9月9日は更にめでたい。一方、めでたすぎてよくない、という説もある。

実は9月9日は天武天皇が崩御された日でもあるのだ。そんなことから忌日とされ、しばらくは宮中での宴は行われなかった。嵯峨天皇の時代は神泉苑で重陽の宴を開催している。茱萸入りの袋を掛け、菊を挿した花瓶を置いて詩をつくり、氷魚(鮎の稚魚)を食し、菊酒を飲む。

ところで、中国古代では重陽の日に茱萸の入った袋を飾り、家族で野に出たり、山や高台に登って菊酒を飲む風習があった。

出典は『蒙求』(唐の李瀚が編纂した故事集、孟母三遷など有名、日本には平安初期に伝わり、当時必読の教養書)の「桓景登高」

九月九日,汝家當有災厄,急宜去。令家人各作絳嚢盛茱萸以繋臂,登高山飮菊酒,此禍可消,景如言,擧家登高夕還。

汝南の桓景(後漢の人)は方士の費長房のもとで学んでいた。あるとき、師である費長房に、9月9日におまえの家に災厄がある。早急に家人に赤い袋を縫わせ、茱萸を入れ、臂につけて山に登り、菊酒を飲めば災いから逃れることができるだろう。

上記の出典からすると、事の始まりは災厄を避けるための智慧と読めるが、後の唐詩、宋詩からはむしろ、家族を思ったり、時の移り行く様から物思いに耽る詩が散見できる。

九月九日憶山東兄弟

        王維

独在異郷為異客

毎逢佳節倍思親

遙知兄弟登高処

徧挿茱萸少一人

めでたい日になると尚更親族を思い出す。今頃、兄弟たちは山に登っているだろうなー、みんな茱萸を(頭に)挿して。一人(ボク)足りないけど・・・・。

中秋節では月を見ながら各地に住む親族を思い出す、この風習はよく知られている。節句、これは特に幼少の頃は家族で、身内で過ごすものである。そんなことから、節句の日には家族を殊更思い出すきっかけとなるのだろう。

杜牧の清明という詩がある。清明節の日、一人旅をしている杜牧は、小ぬか雨に寂しさを覚える。故郷ではこの気候のよい季節、家族はピクニックをかねて墓参りに行っているだろう。一人取り残された気分になった彼は牧童に居酒屋を訪ねる。牧童は杏子が満開の村を指差した。

詩から古代中国人たちの節句や家族に対する想いが読み取れる。

他にも重陽に関する詩は多い。

李煜の謝新恩には、高台に上ること、茱萸の実(香堕)、菊の花の香り=菊酒(紫菊気)など盛り込み、時の移り変わりと自分の心情を重ねている。

李清照の醉花陰、菊を眺めているうちに黄昏も過ぎてしまった。袖には菊の花の移り香。

重陽の季節、北はかなり寒くなってきている。私はちょうどこの頃、北京郊外の香山のリフトに乗り、突然の小雪に見舞われて震えた。

南はちょうどピクニック、ハイキングに最適だ。収穫も終わり、晩秋に入る前の自然とのたわむれ。

さて、多出している茱萸について。

現在、日本においてグミと呼ばれる種類は非常に多い。風土記では秦椒と記されているが、山椒とは異なる。山椒は「はじかみ」。茱萸は「かははじかみ」であり。呉茱萸の古名である。

中国と日本の植物で気をつけなければならないのは、同じ漢字を使っていてもまったく別のものを指すことが多いことである。中国での柏科は日本のヒノキ科、というように。鑑真が和漢薬を舌で確かめたというのも、盲目の他にも納得できる逸話である。

呉茱萸は漢方薬でもあり、中国原産の落葉の小低木、5、6月ごろに枝先に緑白色の小花をつけ、果実は紫赤色。この成熟した果実を乾燥し、これを香辛料、芳香性健胃薬の他、頭痛、嘔吐などに用いる。味はとても辛い。

一方菊の薬効は、解熱、鎮痛、消毒、頭痛、強心、眼精疲労、などで古くから不老長寿の植物とも言われている。

呉茱萸と菊の薬効の共通点は頭痛、解毒あたりである。そしてどちらも芳香がある。菊は菊酒として呑むが、茱萸は袋に入れて山に持っていくとだけあるので、実際に食べたのか、香りだけなのか、そこはわからない。わざわざ赤い袋、というからにはこれから来る冬に対抗する、陰陽五行の赤なのか、動物除けなのか、考察は限りない。

出典に登場する方士は、桓景さんの家に近く何かの病、あるいは風邪や食中毒などを予見したのかもしれない。では、なぜ、高台や山に登らなければならないのか?

高台は空気がよい、昔はどこでも空気がよいはず、といってもそこらじゅう、埃や煙は立っている。より、マイナスイオンを吸って体調を整えるか、山に登って体力をつけるか・・・。占いの結果から、高い丘に登るべきなのか。紅葉見物ができてカラーヒーリングになるのか?これも考察は限りない。

ここで、日本の重陽の節句に戻ろう。嵯峨天皇の時代では菊酒を飲んでいたが、その後は「着菊」という習慣が加わる。

9月9日の前日、菊に真綿を被せて夜露で湿らせ、9日の朝、湿った真綿で肌をぬぐうというもの。美容と長寿の効果を願ったらしい。これは菊の香りを尊んだものという。

「九月九日は、暁方より雨少し降りて、菊の露もこちたく、覆いたる綿なども、いたく濡れ、うつしの香ももてはやされたる」『枕草子』

菊といえば、能の演目に「菊慈童」がある。(観世流以外では「枕慈童」)美少年の舞が見所。

葛洪の『抱朴子』には、南陽郡(河南省)れき県の山の谷川のほとりに住む人々は皆長命であったと記されている。上流には菊の花が咲き乱れ、菊が川に落ちてその川の水が仙薬になったというのだ。

この話を題材にした能で、話は三国は魏の文帝、つまり曹操の子の曹丕の話。文帝の使いが霊水を求めて山中に入ると、菊の花が咲き誇る場所に美しい少年が住んでいた。年は700歳。周の穆王に与えられた枕に書かれている法華経の二句を菊の葉に書き写し、その葉にたまる露を飲んだところ、長命を得たという。この話は、冒頭の桓景の話よりは後世、話している内容は桓景より千年を遡る。

酒銘の菊水は『太平記』十三巻(龍馬進奏の事)における『菊慈童』という謡曲に起源を求めたそうだ。また、二次大戦当時、特攻隊の名称や尽忠報国の象徴、大楠公の家紋でもある。

ちなみに、中国河南省内郷県には菊水という白河の支流がある。

菊の霊水を解釈するに、菊の一種のハーブウォーターといえよう。14世紀、ハンガリーの王妃エリザベートは70歳を越え、リューマチに悩まされていたが、修道女の作ったハーブを使った香水を飲み、洗顔、入浴したところ、どんどん美しく若返り、ついにはポーランドの王からプロポーズされた・・・。

また、一種のフラワーエッセンス、とも言えるだろう。20世紀初頭、イギリスのバッチ博士により始められたが、その同じようなエッセンスの歴史は思いのほか古い。バッチ博士のは主に精神、魂に作用すると言われるが、古代はその守備範囲が多様ではないか。

法華経が書かれた菊の葉にたまった露、菊の花の酒と変遷してきた。葉と花、水と酒の違いはあるにせよ、植物のエキスを浸出させる、あるいは波動を液体に転写する、という行為は興味深い。

重陽の節句の話題から、中国の故事、伝説、漢詩、枕草子、能、ハーブ、フラワーエッセンスなどにまでつながった。

重陽の節句に関する古代のキーワードは、不老長寿、魔除け、茱萸、菊の花、菊酒、香り、家族、ピクニック、秋。魏の菊水の観点から読み解けば、不老長寿、後漢では魔除け、災難除け、植物の恩恵、薬効、家族の絆、季節への感性を深める節句にも発展した。

にぎやかなハロウィーンは子供達には特に楽しい。かぼちゃは身体を温め、年々メニューが増えるスィーツも華やかだ。

けれど、秋の夜長にそっと菊の花に真綿をかぶせ、翌日の朝露で顔をパッティングしてみるのも美肌に効果があるかもしれない。葉に法華経を書いてみると墨と菊の香りで癒されるかもしれない、なんとも贅沢な時間ではないか。

色づく山に登って、山のグミを眺めながら菊酒を頂く。いい季節である。

菊水の辛口と錫(すず)製チロリ

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恵果と空海の青龍寺

今日は夏至、6月21日。

21日といえば、弘法大師空海の入定3月21日を連想し、6月といえば空海の生誕日6月15日を思い出す。昔は旧暦だから、空海の生まれた日は恐らく暑かったのだろう。今年は7月10日にあたっている。

そして、旧暦の6月、空海は長安の青龍寺に到着する。長安の夏は暑いが、乾燥しているため、木陰に入るとことのほか気持ちよい。1000年前は今より少しは湿潤だったかもしれない。

当時、大唐帝国は中国仏教史上において、密教全盛期を迎えていた。最澄、空海、円仁らは、そんな時代に留学僧となったのである。

どのような場所で、空海は恵果阿闍梨に密教の奥義を伝授されたのか。

何もなくても、その場所に立ってみたい。歴史を学ぶ者の特性のひとつかもしれない。

西安にいるとき、その機会がやってきた。当時はまだ歴史地理学者のたまごだった友人に、連れて行ってもらったのだ。

病み上がりだったから、その道程は詳細には覚えていない。青龍寺の前の舗装もされていないバス停で、しゃがみこむほどだった。

青龍寺、それはそれはだだっ広い、荒野だった。真夏の照りつく太陽の下、歩くたびに黄土が舞い上がる。

まだまだ、再建される準備段階の時期であった。

中ほどに、真新しい空海記念碑などが建っていた。友人が目に鮮やかな屋根を指差しながら、この形はいついつの特徴があって、と説明してくれていた。

記念碑はその前年の1982年に建立されたとのこと。新しいはずだ。

跡地にあるものはそのくらいだったが、平安の世にここまではるばる海を越えて留学されたのだ、と感慨ひとしお。

その翌年、恵果空海記念堂が竣工した。日本の真言宗寺院の室生寺の灌頂堂等の建築様式を参考にしている。堂内では、青龍寺遺址から発掘された多用な出土文物が陳列されているという。見ることができず、残念。

何年か前、テレビで青龍寺を取材した番組を見たことがある。

今や日本人観光客の一大スポットとなっているというが、修行の現場としてはどうであろうか。

青年僧が、もっと若き僧たちに「ここは、もと恵果阿闍梨のおられたところ、密教の中心、それゆえ、世界から見下されないように、しっかり修行せねば!」

修行僧も少なく、悲壮な感じすらした。

奥義は空海と共に日本へ渡っていった。

さて、その青龍寺のプロフィールとは。

前身は隋の開皇2年(582)に創建された霊感寺。文帝の長安城造営の際、予定地に散在する古墓を城街区へ移送。その鎮魂のために楽遊原の新昌坊内に創建した。

唐初の武徳4年(621)に廃せられる。

高宗の龍朔2年(662)太宗の城陽公主が『観音経』 の霊験で病が治癒したところから、廃寺跡に「観音寺」が創建された。

景雲2年(711)に青龍寺と改称。新昌坊が城内東の端に位置することから、四神の東方を守護する青龍があてられたと考えられている。

恵果は不空三蔵の高弟であった。不空は密教を鎮護国家仏教として位置づけたため、青龍寺という名称はなるほどと思わせる。

この6年後の717年、遣唐使の阿倍仲麻呂と井真成、入唐す。

724年、善無畏三蔵が請来した『大日経』が漢訳される。空海は大和の久米寺でこの経に出あい、入唐を決意する。

746年、不空三蔵が『金剛頂経』を中国に請来した。日本へ請来したのはもちろん、空海である。

ここらへんの密教全盛期に空海が青龍寺入りする。805年6月のことである。

ところが、その40年後の会昌5年(845)、武宗による廃仏令に遭い、青龍寺もその例外ではなかった。慈恩寺、薦福寺、西明寺、荘厳寺の四寺は特別に難を逃れることができた。

その翌年に廃仏令は撤廃され、「護国寺」として復活、その後青龍寺に戻る。

唐の滅亡、長安寺の廃墟化で青龍寺も廃寺。ここまで何度となく廃寺、復活を繰り返してきたわけだ。

宋代には荒野に、明代には痕跡すら残っていない。

明治に入って、何人もの日本人が青龍寺址を求め、古跡を調査したが、なかなか決定的な見解は得られなかった。

当初予想されていた祭台村の石仏寺は平地であり、眺望のよくきく高台にあったという史書の記載に合致しないのである。

その後、考古学的調査によって唐長安城の発掘が進んだことから、青龍寺址もようやく明らかになってきた。1963年、鉄炉廟村に密教系寺院が存在していたことが確認され、1972年には正確な位置が確定された。

このような歴史を見てくると、訪れた当時は荒野になってしまった廃寺の片鱗と、発掘のなごり、再建当初を体験することができた時期のようだ。

1000年の眠りから覚めた頃。

出土文物の中で最も注目するべきは、『仏説施灯功徳経』、『仏頂尊勝陀羅尼経』を刻んだ石灯台という。これで、青龍寺が密教系寺院であったことが確認された。

『仏頂尊勝陀羅尼経』は、北インドの沙門仏陀波利によって、中国にもたらされた。儀鳳元年(676)、五台山で文殊菩薩の化身である老人から上記の経を中国に請来することを要請され、インドに戻って探し当て、永遠淳2年(683)、再び長安に戻ったとされている。

唐代は密教信仰の普及に伴って、陀羅尼信仰が盛んとなったが、波利の逸話は陀羅尼信仰と文殊菩薩の聖地五台山との結びつきを物語るものでもある。

先日の「最澄と天台の国宝展」で文殊菩薩がとても気になったが、唐代の息吹を少しでも感じられたのかもしれない。

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現世極楽浄土

東博の「最澄と天台の国宝」展へもう一度行こうと思っていたのに、連休中に終わってしまった。

かくなる上は、いずれ京都を訪れるしかないか。

二十五菩薩坐像のうち、獅子吼菩薩様、普賢菩薩様、白象王菩薩様が京都即成院からお越しになっていた。

なんと、安寧なお顔をされているのだろう。

自分の中のざわざわした感覚、そして疲労感が融けていくようだった。

しばし、その場を離れられなかった。

一生懸命、そのお姿を目に焼き付けておこうと思った。

即成院といえば、那須与一が屋島の合戦以前、病気平癒を祈願したことでも知られている。与一の墓とされる石造宝塔もあるという。

ご本尊の阿弥陀如来様と二十五菩薩様が鎮座される本堂内陣内は、現世極楽浄土と呼ばれている。

展覧会へは三菩薩様。本堂はさぞかし心落ち着く空間なのではないかと想像している。

いつ国宝になってもおかしくない、そうである。

末法の世の始まりと呼ばれていた時代、人々は阿弥陀信仰に救いを求めていた。

極楽浄土、まばゆい来迎の図・・・・イメージングの一種かもしれない。

前頭葉の中で理想の画像を描けば、白隠禅師の内観の法にも通じていく。

難を逃れ、安寧を望む人々の智慧のひとつ。

二十五菩薩様たちはそれぞれ、楽器を奏で、極楽浄土には天界の音楽も流れている。恐らく天界の香りも。

東博の平成館はいつも混んでいる。

土日はもちろんのこと、平日も展示の前で話し込むグループも多い。

今回は金曜の夕方に入館した。この日は夜の8時まで。この時間帯はゆったり見ることができてなかなかよかった。

最澄より、天台の国宝自体の印象深かった。唐から学んだものは急ぎであったため、却ってその弟子の円仁、円珍らの功績が大きい。不完全であったからこそ、その後の発展が目覚しかったのであろう。

比叡山に学んだ僧

法然は浄土宗、栄西は臨済宗、道元は曹洞宗、親鸞は浄土真宗、日蓮は日蓮宗

比叡山に調査に行った学者の友人が、お坊さんと待ち合わせするにあたり、

「ケイタイくらい持ちなはれ」

と言われてしまったとか。

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爆竹・花火・年獣

春節、旧正月の話。

北京の市街地は1月29日の春節を祝う爆竹、花火を12年ぶりに解禁した。

6・4、天安門事件を市民に思い出させないためだとか。あれだけ、爆竹好きの中国人にとって、それはそれは厳しい規制だったであろう。

といっても制限つきの解禁で、元日は24時間、翌日以降は午前0時~午前7時まで。

結果、爆竹、花火でのけが人は112人、大気は軽度の汚染が観測され、燃えカスはなんと458トン。死者がいないのは珍しい。

中国南部の地方都市の友人宅で、春節を迎えたことがある。

紅白のような歌番組を友人の家族とともにそろってみてから、深夜0時の到来と同時にけたたましい爆竹の音が轟き始めた。

ベランダに出ると、あたりは真っ白。もうもうと煙が立っている。まるでガスで取り囲まれた山の中のようで何も見えない。火薬の鼻を刺す匂いでむせそうだ。

中庭に出た私に、友人は有無を言わさず、点火した40センチくらいの太い花火を持たせ、上に向けろ、という。

「そんな、火花を頭からかぶってしまう。危ないよ。」

「何言ってんの、平気、平気、みんなこうするものなの!!」

金色に輝く、まぶしくも危険な火花の噴水であった。足元にはパンパンパーンと爆竹。

もともと爆竹というものは、年獣を追い払う目的で始まったという。

年末になると、ニエンニエン(年年)と鳴いて、田畑を荒らしにくる怪獣がやってくる。年獣と呼ばれており、武術の達人が年獣のかぶりものをかぶって爆竹とともに追い払った後、その村には、豊作が続いた。この伝説から新年には爆竹を鳴らし、獅子舞を舞い、豊作を祈願するようになったという。およそ2000年前の話である。

爆竹、花火・・・・音と煙と光、高温。火薬の匂いはのどの奥まで入り込む。

十分五感を刺激する、邪を祓う魔除けの儀式。ニエンニエンと鳴かない獣でも爆竹を鳴らせば、巣に帰っていくだろう。その季節に流行る風邪もいぶされそうである。

日本に獅子舞はもたらされたが、爆竹の派手な音は好みに合わなかったのだろうか。木造家屋に爆竹は危険である。

日本の新年の行事では鬼が松明をもって暴れたりする、松明式、鬼追い式という儀式がある。鬼を追って1年の豊作と家内安全を祈願するもの。

形は異なるが、両国とも新年の「火」は神を招く一方、悪霊を祓う点で共通している。

爆竹はだいたい、学校が休みになる夏休みの夜によく耳にする。これは中、高校生のストレス発散。近所迷惑。

ストレス発散、および自己存在証明に車の中で爆音をかける人もいる。

音と光と煙で新年は華々しく明ける。2000年前からのウィンターマジック・イン・ザ・スカイ。そして正月料理で舌鼓。ゴロゴロしていれば、正月太り。

立春も過ぎて、これから春への準備が始まる。防寒もあとひとふんばり。

2月12日まで横浜中華街では獅子舞を見ることができる。

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