ぐるっとパス 文化はめぐる

ここ半月ほどで訪れた美術館・博物館

☆松岡美術館 フランス印象派・新印象派展

お目当ては企画展ではなくて1Fの仏像、台座の意匠を調査中。思わぬ発見があった。

2F、ガラス張りの奥にルノアール。あの作品はここにあったのね。ゆったりした時間の流れる、しっとりした美術館である。

☆東京都庭園美術館  舞台芸術の世界 ティアギレフのロシアバレエと舞台デザイン

昭和33年に建てられた旧朝香邸 アールデコ様式

何度来ても、その佇まいにほっとする。ロシアバレエ衣装の奇抜さに目からウロコ。この美術館だからこそ、この展覧自体がさらに立体化する。周りの雰囲気とマッチするのだ。ピカピカの壁や床には似合わない。

☆大倉集古館 アジアへの憧憬

道教系神像があるのが、ここの特徴でもある。仏像からの影響もおもしろい。

今回は夾苧技法で製作された、大きな大きなたらいが目を引いた。夾苧技法とは、木などの型の上から麻布を何枚も貼り重ね、漆の乾燥後に型を取り去るもの。苧とは苧麻のこと。このたらいのような器の漆と朱の模様がいかにも戦国時代っぽくていい。使用法は特定できないが、たぶん湯船。ゆったりは入れただろうなぁ。お湯を青銅器で沸かして、くんで、くんで、結構大変。今度、先輩に聞いてみよう。

龍泉窯の青磁で興味深い形を発見。宋代の復古主義を髣髴とさせる。

ここは、しーんとしてどんな小さな音も響いてしまうけど、置いてあるものが渋くてお気に入り。

☆泉屋博古館 花鳥礼賛 日本・中国のかたちと心

沈南蘋の影響がこんなに大きかったなんてー。スケールが大きい。

若冲の生き物、鳥はやっぱりいい。椿椿山の玉堂富貴・遊蝶・藻魚、これは天保11年だから1840年。150年前とは思えない感性だ。

林巳奈夫氏は残念ながら、2006年1月にご逝去。あの粋で快刀乱麻な文体も好きだ。青銅器を見ることができるようになると、他の世界の古陶、青銅器までいきなりいきいきと輝いて見えるから、不思議。

二部屋の間のソファに座ると根が生える。お茶飲んで水飲んで・・・。

☆国立科学博物館  インカ・マヤ・アステカ文明展

7月から8月で20万人突破!!ということで、避けていた。金曜日の夕方は穴場である。今回驚いたのは、若者が多いこと。スピリチュアルの世界でマヤ暦も有名になったからだろうか。私がマヤ暦を知ったのは10年以上前だし、ホゼ・アグエイアス夫妻の講演会に参加したのもだいぶ前だ。

この3文明セット、しかもそのプレ文明も少々紹介されているという展覧会はまず初めてだろう。しかも日本初公開のものも多い。

マヤもいろいろな段階があったわけで、マヤ暦から想像する神秘的な面だけでは全体像が見えない、しかもこの昨今、スピリチュアル的に強調されすぎている。そんな中、この展覧会でイメージが変わる人も多いかも。しかし、絵文字を解読している学者たちの努力には敬服する。

インカの黄金は、最近その前の文明のものが多いといわれている。スペイン人が掠奪して祖国で溶かしてしまったけれど、墓の副葬品から推測することが可能になった。

戦争は儀式でもある。アステカの血なまぐささも現代の感覚でとらえては不可解なばかりだ。歴史を読むにはその感覚をはずさなければ先に進めない。それにしても、つい数百年前の事実なのである。

青銅器や紋様に詳しくなると、この三文明の遺物も何倍も楽しめる。その他も新しい発見がたくさんあり、これは参考になりそうだ。

☆東京国立博物館  京都五山 禅の文化

ここも平日昼間は込んで仕方がないが、やはり金曜日の夕方以降は、まともに入れる。

入魂の禅僧の像はまさに、入魂。並々ならぬ存在感を感じた。そのまま立ち上がって喝!と吼えられそうである。ご生前の本物のオーラは推して知るべし。。。

朱印状は初めて見たかもしれない。大きい。ポスターのようだ。こういう外交文書は相国寺や南禅寺の僧侶が書いていたそうだ。中国帰りのインテリたち。道元の曹洞宗とまた役割が違う。彼ら京都五山の僧侶たちは、宗教、文化、そして外交の要を握っていた。要チェックの集団である。

永楽帝からの文書の地模様に龍、これがまた風格があるのだ。8世紀にすでに一般では使ってはいけない模様を詔している。シルクロードからわたってきた模様もそれぞれの民族の好みで取捨選択され、独自の発展を遂げ、それがまた逆輸入したり、互いに影響しあっている。昔はアイデアを盗むなど毛頭なく、文化を吸収して(マネして)、新しい文化を生み出していく。日本のマネの文化はこうしたシルクロード文化の特徴を有効利用した形なのだろう。今の偽ブランド問題も、案外このルートと関係があるのかもしれない。昔プレゼントしてもらったドナルドダックのぬいぐるみは、実はまったく同じ顔ではない。つり目なのである。

というわけで、今度こそぐるっとパスをうまく利用しようと、時間を作って足を運んでいる。久々に山種と出光などにも近く行くつもり。速水御舟のバラのスケッチのはがきをみつけて、最近はおしゃれな商品にしている、とつくづく思う。

行けば行くほど、今まで何をみていたんだろう、と後悔する。テーマがはっきりすると見方も見るところも格段と違うのだ。そして、もっともっと数を見なければ、と気が引き締まる。いろいろな発見があるから面白い。

昨日は小澤征爾氏一色の日だった。13時から1時まで。

この春に、ジュニア用のワーグナーのタンホイザー聴きにいったら、気づくとふくらんだ真っ白頭の指揮者が振り返って、

「明日の出だしの練習するんで、あとからちゃんとした人くるから」

とは、なんと小澤征爾氏であった。企画側のサプライズなのだったのか?会場がザワザワした。そこら中ケイタイでシャッターを押している。最後まで一緒の空間で鑑賞。

中学生くらいのときに、まだ髪の毛が黒々として白いとっくり襟姿の指揮を拝見したのがたぶん初回だ。

昨日、1980年代に米国が製作した「OZAWA」というタイトルのテレビ番組も放映されたが、その中で彼はヨーヨー・マ氏と東洋人が西洋の音楽をやることについて、と語り始め、そこで撮影を中止してもらった。個人的な話なんだから、と。

デュティユーが『瞬間の神秘』の中で登場させた、ハンガリーの楽器、ツィンバロムを見たとたんに、ヨーロッパのハンマーダルシマー、イランのサントゥール、中国の楊琴を連想する。

孤立した文化を探す方が難しいのではないか。どこかでつながっている。

昔からの各民族間の往来、これもいろいろ、

文化は人の手を離れてもアメーバのように形を変え、

それを言ったら、700万年前のトゥーマイは全世界のご先祖様。

楽器も音楽も誰が奏でようとかまわない。楽器は文化の詰まったツールだ。

調合することで、新しい文化がまた生まれ、うまくいけば効果は何倍にもなる。

サイトウ・キネン・オーケストラのミックスされ、透き通ってパワフルな音色は魂に響いた。

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スカラベと金印

上野の国立博物館へテクテク歩いている途中、時間がないと思いつつも右へ緩やかにカーブし、両足は階段を下りていた。

大英博物館 ミイラと古代エジプト展 

来週までか。え? 事前予約?何、本日チケットあります?

まぁ、いいや、と軽い気分でチケットを買う。以前、2ヶ月限定のぐるっとパスを買って結局ぎりぎりもとを取ったくらいで過ぎ去ってしまったので。

それにしても、以前は500円玉でおつりがきたのに、改築して特別展を開くようになってからはぐっとお高くなった。ミュージアムショップはフリーパスだったので、展示は見なくても時より立ち寄っていた。鉱物など質のよい掘り出し物があったのだ。それも今では入場料がないと入れない。

入場すると、シアターを見る人の長蛇の列である。見ない人は中の係りに言ってくださいということだったので、その旨伝えると、

「ご覧にならないと、半分は過ぎてしまうことになりますが・・・」

システムがよく理解できていなかったのだが、とりあえず入場者はシアターでスクリーンを見ながら一通り説明を受けて、それから実際の展示室へはきだされるらしい。シアターの時間を前もって調べてきている人ならいいけれど、行き当たりばったりの人は待たされる。チケットを見たら「混雑状況により万一入場できないときはご了承ください」と書いてあるので、これでは見たい人は「半分」損することになるのではないか。

座れるまで10分、始まるまであと10分。上映時間は30分。そんな余裕はないので、先を急ぐと、今度はシアターの中を通らないと次へ行けないという。真っ暗な中、まるでコンサートに遅れたオーディエンスのように懐中電灯に足元を照らされながら次の間へ出た。

他の美術館や博物館のように独立した開放系のルームで映像を流しっぱなしにするなど、もう少し工夫してもよいのではないかと感じた。これでは何十分待ちかのアトラクションのようである。

展示は古代エジプトの死後の世界観、動物は神の化身、という当然のことながらミイラ関係の題材が多い。器の説明はまあわかる。しかし、香料などは固有名詞さえも明記していない。臓器はいいとしても、その他入っていたものを想像できれば、さらに現実味が増すのに、と思いつつ。そのため、詳しい映像を見てもらうのかもしれないが。

最近は先端テクノロジーにより、ミイラを損壊しなくてもかなりのことがわかるようになってきたという。だから、内部の骨の写真など今までにはない展示方法だったと思う。麻の包帯の上にスカラベがのせてあり、これは文字や絵で見るよりわかりやすい。昔の人は模様や鉱物や絵文字などで魔よけや願いをどうにか通じさせようとしていたのがわかる。

ミイラのこの時代で、殷の前の夏文明よりさらに古いのだから、エジプト文明の悠久さに気が遠くなる。彼らはどうにかして遺体を完全に保とうと四苦八苦した。ミイラ作りにも上中下があるものの。先日のテレビではツタンカーメンの左足の怪我について検分していた。時代は変わったものだ。

さっと科博をあとにして、メインの国立博物館の「悠久の美」に行った。2003年に北京市内の中国歴史博物館と中国革命博物館が統合して生まれた、中国国家博物館の生え抜きの所蔵品だそうだ。歴史博物館は何度が足を運んだが、広くて一度ではまわれない。スポットライトなどなく、その日の天候に左右される自然光。人もほとんどいなくて、ゆったり見ることができた。展覧品も普段着の顔でざっくばらんに並んでいる。

ところが、今回特に感じたことがある。青銅器が磨きこまれているのだ。最近の文化財保護は進んでいるから、いろいろな過程を経ているのであろう。高級古美術である。

今まで見てきたのは緑青や土ホコリもかぶっているような、出土品の履歴を感じさせるものであったが、超およそゆきでピカピカである。なんだかさびしくもあるが、これは使っていたときの生き生きとした一面も見ることができるような気がした。

今回、厳選した61点ということであるが、確かに歴史概説書に白黒で掲載されているものが多い。その筋の人が見れば、スゴイ、というものが来ている。今まで見たことがあるものもあるかもしれないのだが、こう磨かれてスポットライトがあたっていると何割り増しかに見えてしまう。

先史時代から漢代くらいまでの見所は、まずは渦巻き模様であろう。縄文やケルトも髣髴とさせる、ぐるぐる模様は次第に複雑に、時に四角張っていろいろなバリエーションに進化していく。説明書きに神霊の霊気を表しているのか、とあった。羊や牛やトラの体にまで模様があるのは、いろいろ意味があるが、昔の刺青も思い出す。現代アートにまでつながりそうである。

先ほどはミイラの保存科学を見学したが、中国ではまた死後の世界観が違う。金縷玉衣の中は確かに密閉性が高く、数百年は生きたままを保ったと言われているが、2000年はもたなかった。遺体は土に返って、魂は天に上る。古代エジプトとは考え方が違う。始皇帝はこの方法で埋葬されていると考えられている。この金縷玉衣は三国時代魏の曹操によって、禁止された。ずっと禁止されていなかったら、曹操や玄宗皇帝の金縷玉衣にもお目にかかれたかもしれない。

形は漢代までは非常に写実性を追求している。兵馬俑など、モデルに生き写しなのだろう。犀尊はすばらしかった。この質感、重量感、2000年以上の時間など吹っ飛んでしまう。

戦国時代の曽侯乙墓出土の大尊缶(だいそんふ)は想像していたより、ずっと大きかった。高さ124センチ以上。なみなみと酒が入っていたのだろうな。曽侯乙について書いたら長くなる。今も音が鳴る巨大な古代楽器が有名だ。それを奏でていた楽人たちは殉葬されてしまったけど。

そばの白髪のおじいさんが「やっぱり、酒だね~昔から酒は欠かせないんだ!」なんて話していた。

で、どんな酒?なんてその先までは考えないのかも。中に入っていたものの説明には一切触れず。酒の種類の名前は確かに見たこともない漢字ばかりだし、この先書くこともない字だから、ここにもあえて書かないけれど、確かにその時代の酒が入っていたのだ。

やっぱり酒だね~なんて言われても、その時代は3人以上でお酒を飲んだら罰則だし、酒を飲めるのは特別の祭祀のみ。許可制なのだ。

殷の酒池肉林の逸話も思い浮かぶ。日にちがわからなくなるまで飲み続けたという。

発見された酒酵母で一番古いのは殷代。液体としては漢代の酒がつい数年前に発見されている。ビンテージどころではない。

出土品中心の展覧会で面白いな、と思うのはそれぞれの人がそれぞれの関心事で見ているということだ。その日は高齢者の方のご夫婦が多かった。大部分がなんとなく、興味があるから、と新鮮な驚きがあって、その素朴な感嘆の声がこちらも新鮮に聞こえたりする。

古美術関係の人も多いと思う。目が目利きなのだ。なめるように見回している。ただ、古美術店に行って一番困るのは出土地と出土年代がわからないこと。わかっていたらそこにない。最近は盗掘品が増えている。形によって時代はある程度特定できるものの、保証はない。この分野では、時代や時代背景より、色、形、状態の方が興味があるのだ。

歴史系の専門家は特別枠だったり、あるいは生徒やカルチャースクールの方と時間外に訪れる方もあるだろう。

漢代以降は、陶器などはデザイン性が高くなり、小型化し、金銀細工は非常に技術的になっていくる。祭祀とは離れ、貴族などの嗜好品の一種、美術品化していく。

雲南省の祭祀場面貯貝器(前漢)は圧巻であった。子安貝などを入れる円筒形の青銅器で、32センチほどの円形のフタの上に、なんと合計129人のミニチュアの人間と動物が乗っているのだ。3Dの祭祀場面であり、まあよくもここまでぎっしり作ったものである。ガヤガヤとざわめきが聞こえてきそうだった。ここの王は戦国楚の出身だから、どこかしらにその文化が残っているかもしれない。

そうそう、この国王が漢王朝から授かった金印(上に蛇がとぐろを巻いている)が、かの有名な倭の奴国の王に授けた金印(福岡市博物館蔵)とそっくりなのである。駱駝や亀を基本とする漢代からすれば、この二つの僻地の国王に送った金印の共通性に何かのなぞが隠れているらしい。後漢と倭の関係は詳しくわからないだけに興味深い。戦国時代に滅びた国の言葉が日本で生き伸びていることも確かにある。

金印については小学校でも教えるけれど、「もらった」「ふーん」「金だ」で終わってませんか。

これは、中国の内陸の洛陽まではるばる朝貢に行って授かっているのだ。日本で授かったのではない。

鑑真の時代でさえ、日本へ来ることはあんなに大変だったのに、それより700年前に、日本のクニは争うように後漢の後ろ盾を得ようと、大陸へ渡っているのだ。もっとも鑑真の時代は制度の都合により、海流に逆らう時期にわざわざ出航しているのが問題だが。

つらつら時代背景や出土品の使い方を考えたり、あれとこれは共通点があるよね、新たな発見があったり、充実した時間を過ごせた。過去とはいえ、そこから得る智慧は計り知れない。史実の他にもあの完成度の高い出土品に出会って、インスピレーションを得るクリエイターがいるかもしれない。でも、人の歴史とは変化があった面も退化した面もあるし、全然変わっていない面もあるのが面白い。

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重陽の節句と茱萸と菊

昨日、10月30日は旧暦9月9日にあたり、重陽の節句であった。

レストランのウエイトレスは黒いとんがり帽や耳をつけ、カボチャの風船がゆらめく店内を軽やかに舞う。

「今日は重陽の節句ねぇ。」

「え?チョーヨーの節句って何?」

無理もない。今、この節句をしている家庭はまずないだろう。

まったく世間はオレンジだらけ、ハロウィーン一色、アメリカナイズされてきているなあ、自分はすでに10数年前、雑誌に載っていたパンプキンパイを嬉しそうに焼いていたのだ、と思い出しつつ、

おもむろにカボチャムースをすくう私。うーん、なめらか。

ハロウィーンでアメリカナイズされてきた、と言っても、重陽の節句ももともとは中国ナイズである。

陽の数のなかでも最大数、つまり老陽である九が重なる9月9日は更にめでたい。一方、めでたすぎてよくない、という説もある。

実は9月9日は天武天皇が崩御された日でもあるのだ。そんなことから忌日とされ、しばらくは宮中での宴は行われなかった。嵯峨天皇の時代は神泉苑で重陽の宴を開催している。茱萸入りの袋を掛け、菊を挿した花瓶を置いて詩をつくり、氷魚(鮎の稚魚)を食し、菊酒を飲む。

ところで、中国古代では重陽の日に茱萸の入った袋を飾り、家族で野に出たり、山や高台に登って菊酒を飲む風習があった。

出典は『蒙求』(唐の李瀚が編纂した故事集、孟母三遷など有名、日本には平安初期に伝わり、当時必読の教養書)の「桓景登高」

九月九日,汝家當有災厄,急宜去。令家人各作絳嚢盛茱萸以繋臂,登高山飮菊酒,此禍可消,景如言,擧家登高夕還。

汝南の桓景(後漢の人)は方士の費長房のもとで学んでいた。あるとき、師である費長房に、9月9日におまえの家に災厄がある。早急に家人に赤い袋を縫わせ、茱萸を入れ、臂につけて山に登り、菊酒を飲めば災いから逃れることができるだろう。

上記の出典からすると、事の始まりは災厄を避けるための智慧と読めるが、後の唐詩、宋詩からはむしろ、家族を思ったり、時の移り行く様から物思いに耽る詩が散見できる。

九月九日憶山東兄弟

        王維

独在異郷為異客

毎逢佳節倍思親

遙知兄弟登高処

徧挿茱萸少一人

めでたい日になると尚更親族を思い出す。今頃、兄弟たちは山に登っているだろうなー、みんな茱萸を(頭に)挿して。一人(ボク)足りないけど・・・・。

中秋節では月を見ながら各地に住む親族を思い出す、この風習はよく知られている。節句、これは特に幼少の頃は家族で、身内で過ごすものである。そんなことから、節句の日には家族を殊更思い出すきっかけとなるのだろう。

杜牧の清明という詩がある。清明節の日、一人旅をしている杜牧は、小ぬか雨に寂しさを覚える。故郷ではこの気候のよい季節、家族はピクニックをかねて墓参りに行っているだろう。一人取り残された気分になった彼は牧童に居酒屋を訪ねる。牧童は杏子が満開の村を指差した。

詩から古代中国人たちの節句や家族に対する想いが読み取れる。

他にも重陽に関する詩は多い。

李煜の謝新恩には、高台に上ること、茱萸の実(香堕)、菊の花の香り=菊酒(紫菊気)など盛り込み、時の移り変わりと自分の心情を重ねている。

李清照の醉花陰、菊を眺めているうちに黄昏も過ぎてしまった。袖には菊の花の移り香。

重陽の季節、北はかなり寒くなってきている。私はちょうどこの頃、北京郊外の香山のリフトに乗り、突然の小雪に見舞われて震えた。

南はちょうどピクニック、ハイキングに最適だ。収穫も終わり、晩秋に入る前の自然とのたわむれ。

さて、多出している茱萸について。

現在、日本においてグミと呼ばれる種類は非常に多い。風土記では秦椒と記されているが、山椒とは異なる。山椒は「はじかみ」。茱萸は「かははじかみ」であり。呉茱萸の古名である。

中国と日本の植物で気をつけなければならないのは、同じ漢字を使っていてもまったく別のものを指すことが多いことである。中国での柏科は日本のヒノキ科、というように。鑑真が和漢薬を舌で確かめたというのも、盲目の他にも納得できる逸話である。

呉茱萸は漢方薬でもあり、中国原産の落葉の小低木、5、6月ごろに枝先に緑白色の小花をつけ、果実は紫赤色。この成熟した果実を乾燥し、これを香辛料、芳香性健胃薬の他、頭痛、嘔吐などに用いる。味はとても辛い。

一方菊の薬効は、解熱、鎮痛、消毒、頭痛、強心、眼精疲労、などで古くから不老長寿の植物とも言われている。

呉茱萸と菊の薬効の共通点は頭痛、解毒あたりである。そしてどちらも芳香がある。菊は菊酒として呑むが、茱萸は袋に入れて山に持っていくとだけあるので、実際に食べたのか、香りだけなのか、そこはわからない。わざわざ赤い袋、というからにはこれから来る冬に対抗する、陰陽五行の赤なのか、動物除けなのか、考察は限りない。

出典に登場する方士は、桓景さんの家に近く何かの病、あるいは風邪や食中毒などを予見したのかもしれない。では、なぜ、高台や山に登らなければならないのか?

高台は空気がよい、昔はどこでも空気がよいはず、といってもそこらじゅう、埃や煙は立っている。より、マイナスイオンを吸って体調を整えるか、山に登って体力をつけるか・・・。占いの結果から、高い丘に登るべきなのか。紅葉見物ができてカラーヒーリングになるのか?これも考察は限りない。

ここで、日本の重陽の節句に戻ろう。嵯峨天皇の時代では菊酒を飲んでいたが、その後は「着菊」という習慣が加わる。

9月9日の前日、菊に真綿を被せて夜露で湿らせ、9日の朝、湿った真綿で肌をぬぐうというもの。美容と長寿の効果を願ったらしい。これは菊の香りを尊んだものという。

「九月九日は、暁方より雨少し降りて、菊の露もこちたく、覆いたる綿なども、いたく濡れ、うつしの香ももてはやされたる」『枕草子』

菊といえば、能の演目に「菊慈童」がある。(観世流以外では「枕慈童」)美少年の舞が見所。

葛洪の『抱朴子』には、南陽郡(河南省)れき県の山の谷川のほとりに住む人々は皆長命であったと記されている。上流には菊の花が咲き乱れ、菊が川に落ちてその川の水が仙薬になったというのだ。

この話を題材にした能で、話は三国は魏の文帝、つまり曹操の子の曹丕の話。文帝の使いが霊水を求めて山中に入ると、菊の花が咲き誇る場所に美しい少年が住んでいた。年は700歳。周の穆王に与えられた枕に書かれている法華経の二句を菊の葉に書き写し、その葉にたまる露を飲んだところ、長命を得たという。この話は、冒頭の桓景の話よりは後世、話している内容は桓景より千年を遡る。

酒銘の菊水は『太平記』十三巻(龍馬進奏の事)における『菊慈童』という謡曲に起源を求めたそうだ。また、二次大戦当時、特攻隊の名称や尽忠報国の象徴、大楠公の家紋でもある。

ちなみに、中国河南省内郷県には菊水という白河の支流がある。

菊の霊水を解釈するに、菊の一種のハーブウォーターといえよう。14世紀、ハンガリーの王妃エリザベートは70歳を越え、リューマチに悩まされていたが、修道女の作ったハーブを使った香水を飲み、洗顔、入浴したところ、どんどん美しく若返り、ついにはポーランドの王からプロポーズされた・・・。

また、一種のフラワーエッセンス、とも言えるだろう。20世紀初頭、イギリスのバッチ博士により始められたが、その同じようなエッセンスの歴史は思いのほか古い。バッチ博士のは主に精神、魂に作用すると言われるが、古代はその守備範囲が多様ではないか。

法華経が書かれた菊の葉にたまった露、菊の花の酒と変遷してきた。葉と花、水と酒の違いはあるにせよ、植物のエキスを浸出させる、あるいは波動を液体に転写する、という行為は興味深い。

重陽の節句の話題から、中国の故事、伝説、漢詩、枕草子、能、ハーブ、フラワーエッセンスなどにまでつながった。

重陽の節句に関する古代のキーワードは、不老長寿、魔除け、茱萸、菊の花、菊酒、香り、家族、ピクニック、秋。魏の菊水の観点から読み解けば、不老長寿、後漢では魔除け、災難除け、植物の恩恵、薬効、家族の絆、季節への感性を深める節句にも発展した。

にぎやかなハロウィーンは子供達には特に楽しい。かぼちゃは身体を温め、年々メニューが増えるスィーツも華やかだ。

けれど、秋の夜長にそっと菊の花に真綿をかぶせ、翌日の朝露で顔をパッティングしてみるのも美肌に効果があるかもしれない。葉に法華経を書いてみると墨と菊の香りで癒されるかもしれない、なんとも贅沢な時間ではないか。

色づく山に登って、山のグミを眺めながら菊酒を頂く。いい季節である。

菊水の辛口と錫(すず)製チロリ

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恵果と空海の青龍寺

今日は夏至、6月21日。

21日といえば、弘法大師空海の入定3月21日を連想し、6月といえば空海の生誕日6月15日を思い出す。昔は旧暦だから、空海の生まれた日は恐らく暑かったのだろう。今年は7月10日にあたっている。

そして、旧暦の6月、空海は長安の青龍寺に到着する。長安の夏は暑いが、乾燥しているため、木陰に入るとことのほか気持ちよい。1000年前は今より少しは湿潤だったかもしれない。

当時、大唐帝国は中国仏教史上において、密教全盛期を迎えていた。最澄、空海、円仁らは、そんな時代に留学僧となったのである。

どのような場所で、空海は恵果阿闍梨に密教の奥義を伝授されたのか。

何もなくても、その場所に立ってみたい。歴史を学ぶ者の特性のひとつかもしれない。

西安にいるとき、その機会がやってきた。当時はまだ歴史地理学者のたまごだった友人に、連れて行ってもらったのだ。

病み上がりだったから、その道程は詳細には覚えていない。青龍寺の前の舗装もされていないバス停で、しゃがみこむほどだった。

青龍寺、それはそれはだだっ広い、荒野だった。真夏の照りつく太陽の下、歩くたびに黄土が舞い上がる。

まだまだ、再建される準備段階の時期であった。

中ほどに、真新しい空海記念碑などが建っていた。友人が目に鮮やかな屋根を指差しながら、この形はいついつの特徴があって、と説明してくれていた。

記念碑はその前年の1982年に建立されたとのこと。新しいはずだ。

跡地にあるものはそのくらいだったが、平安の世にここまではるばる海を越えて留学されたのだ、と感慨ひとしお。

その翌年、恵果空海記念堂が竣工した。日本の真言宗寺院の室生寺の灌頂堂等の建築様式を参考にしている。堂内では、青龍寺遺址から発掘された多用な出土文物が陳列されているという。見ることができず、残念。

何年か前、テレビで青龍寺を取材した番組を見たことがある。

今や日本人観光客の一大スポットとなっているというが、修行の現場としてはどうであろうか。

青年僧が、もっと若き僧たちに「ここは、もと恵果阿闍梨のおられたところ、密教の中心、それゆえ、世界から見下されないように、しっかり修行せねば!」

修行僧も少なく、悲壮な感じすらした。

奥義は空海と共に日本へ渡っていった。

さて、その青龍寺のプロフィールとは。

前身は隋の開皇2年(582)に創建された霊感寺。文帝の長安城造営の際、予定地       に散在する古墓を城街区へ移送。その鎮魂のために楽遊原の新昌坊内に創建した。

唐初の武徳4年(621)に廃せられる。

高宗の龍朔2年(662)太宗の城陽公主が『観音経』 の霊験で病が治癒したところから、廃寺跡に「観音寺」が創建された。

景雲2年(711)に青龍寺と改称。新昌坊が城内東の端に位置することから、四神の東方を守護する青龍があてられたと考えられている。

恵果は不空三蔵の高弟であった。不空は密教を鎮護国家仏教として位置づけたため、青龍寺という名称はなるほどと思わせる。

この6年後の717年、遣唐使の阿倍仲麻呂と井真成、入唐す。

724年、善無畏三蔵が請来した『大日経』が漢訳される。空海は大和の久米寺でこの経に出あい、入唐を決意する。

746年、不空三蔵が『金剛頂経』を中国に請来した。日本へ請来したのはもちろん、空海である。

ここらへんの密教全盛期に空海が青龍寺入りする。805年6月のことである。

ところが、その40年後の会昌5年(845)、武宗による廃仏令に遭い、青龍寺もその例外ではなかった。慈恩寺、薦福寺、西明寺、荘厳寺の四寺は特別に難を逃れることができた。

その翌年に廃仏令は撤廃され、「護国寺」として復活、その後青龍寺に戻る。

唐の滅亡、長安寺の廃墟化で青龍寺も廃寺。ここまで何度となく廃寺、復活を繰り返してきたわけだ。

宋代には荒野に、明代には痕跡すら残っていない。

明治に入って、何人もの日本人が青龍寺址を求め、古跡を調査したが、なかなか決定的な見解は得られなかった。

当初予想されていた祭台村の石仏寺は平地であり、眺望のよくきく高台にあったという史書の記載に合致しないのである。

その後、考古学的調査によって唐長安城の発掘が進んだことから、青龍寺址もようやく明らかになってきた。1963年、鉄炉廟村に密教系寺院が存在していたことが確認され、1972年には正確な位置が確定された。

このような歴史を見てくると、訪れた当時は荒野になってしまった廃寺の片鱗と、発掘のなごり、再建当初を体験することができた時期のようだ。

1000年の眠りから覚めた頃。

出土文物の中で最も注目するべきは、『仏説施灯功徳経』、『仏頂尊勝陀羅尼経』を刻んだ石灯台という。これで、青龍寺が密教系寺院であったことが確認された。

『仏頂尊勝陀羅尼経』は、北インドの沙門仏陀波利によって、中国にもたらされた。儀鳳元年(676)、五台山で文殊菩薩の化身である老人から上記の経を中国に請来することを要請され、インドに戻って探し当て、永遠淳2年(683)、再び長安に戻ったとされている。

唐代は密教信仰の普及に伴って、陀羅尼信仰が盛んとなったが、波利の逸話は陀羅尼信仰と文殊菩薩の聖地五台山との結びつきを物語るものでもある。

先日の「最澄と天台の国宝展」で文殊菩薩がとても気になったが、唐代の息吹を少しでも感じられたのかもしれない。

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現世極楽浄土

東博の「最澄と天台の国宝」展へもう一度行こうと思っていたのに、連休中に終わってしまった。

かくなる上は、いずれ京都を訪れるしかないか。

二十五菩薩坐像のうち、獅子吼菩薩様、普賢菩薩様、白象王菩薩様が京都即成院からお越しになっていた。

なんと、安寧なお顔をされているのだろう。

自分の中のざわざわした感覚、そして疲労感が融けていくようだった。

しばし、その場を離れられなかった。

一生懸命、そのお姿を目に焼き付けておこうと思った。

即成院といえば、那須与一が屋島の合戦以前、病気平癒を祈願したことでも知られている。与一の墓とされる石造宝塔もあるという。

ご本尊の阿弥陀如来様と二十五菩薩様が鎮座される本堂内陣内は、現世極楽浄土と呼ばれている。

展覧会へは三菩薩様。本堂はさぞかし心落ち着く空間なのではないかと想像している。

いつ国宝になってもおかしくない、そうである。

末法の世の始まりと呼ばれていた時代、人々は阿弥陀信仰に救いを求めていた。

極楽浄土、まばゆい来迎の図・・・・イメージングの一種かもしれない。

前頭葉の中で理想の画像を描けば、白隠禅師の内観の法にも通じていく。

難を逃れ、安寧を望む人々の智慧のひとつ。

二十五菩薩様たちはそれぞれ、楽器を奏で、極楽浄土には天界の音楽も流れている。恐らく天界の香りも。

東博の平成館はいつも混んでいる。

土日はもちろんのこと、平日も展示の前で話し込むグループも多い。

今回は金曜の夕方に入館した。この日は夜の8時まで。この時間帯はゆったり見ることができてなかなかよかった。

最澄より、天台の国宝自体の印象深かった。唐から学んだものは急ぎであったため、却ってその弟子の円仁、円珍らの功績が大きい。不完全であったからこそ、その後の発展が目覚しかったのであろう。

比叡山に学んだ僧

法然は浄土宗、栄西は臨済宗、道元は曹洞宗、親鸞は浄土真宗、日蓮は日蓮宗

比叡山に調査に行った学者の友人が、お坊さんと待ち合わせするにあたり、

「ケイタイくらい持ちなはれ」

と言われてしまったとか。

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爆竹・花火・年獣

春節、旧正月の話。

北京の市街地は1月29日の春節を祝う爆竹、花火を12年ぶりに解禁した。

6・4、天安門事件を市民に思い出させないためだとか。あれだけ、爆竹好きの中国人にとって、それはそれは厳しい規制だったであろう。

といっても制限つきの解禁で、元日は24時間、翌日以降は午前0時~午前7時まで。

結果、爆竹、花火でのけが人は112人、大気は軽度の汚染が観測され、燃えカスはなんと458トン。死者がいないのは珍しい。

中国南部の地方都市の友人宅で、春節を迎えたことがある。

紅白のような歌番組を友人の家族とともにそろってみてから、深夜0時の到来と同時にけたたましい爆竹の音が轟き始めた。

ベランダに出ると、あたりは真っ白。もうもうと煙が立っている。まるでガスで取り囲まれた山の中のようで何も見えない。火薬の鼻を刺す匂いでむせそうだ。

中庭に出た私に、友人は有無を言わさず、点火した40センチくらいの太い花火を持たせ、上に向けろ、という。

「そんな、火花を頭からかぶってしまう。危ないよ。」

「何言ってんの、平気、平気、みんなこうするものなの!!」

金色に輝く、まぶしくも危険な火花の噴水であった。足元にはパンパンパーンと爆竹。

もともと爆竹というものは、年獣を追い払う目的で始まったという。

年末になると、ニエンニエン(年年)と鳴いて、田畑を荒らしにくる怪獣がやってくる。年獣と呼ばれており、武術の達人が年獣のかぶりものをかぶって爆竹とともに追い払った後、その村には、豊作が続いた。この伝説から新年には爆竹を鳴らし、獅子舞を舞い、豊作を祈願するようになったという。およそ2000年前の話である。

爆竹、花火・・・・音と煙と光、高温。火薬の匂いはのどの奥まで入り込む。

十分五感を刺激する、邪を祓う魔除けの儀式。ニエンニエンと鳴かない獣でも爆竹を鳴らせば、巣に帰っていくだろう。その季節に流行る風邪もいぶされそうである。

日本に獅子舞はもたらされたが、爆竹の派手な音は好みに合わなかったのだろうか。木造家屋に爆竹は危険である。

日本の新年の行事では鬼が松明をもって暴れたりする、松明式、鬼追い式という儀式がある。鬼を追って1年の豊作と家内安全を祈願するもの。

形は異なるが、両国とも新年の「火」は神を招く一方、悪霊を祓う点で共通している。

爆竹はだいたい、学校が休みになる夏休みの夜によく耳にする。これは中、高校生のストレス発散。近所迷惑。

ストレス発散、および自己存在証明に車の中で爆音をかける人もいる。

音と光と煙で新年は華々しく明ける。2000年前からのウィンターマジック・イン・ザ・スカイ。そして正月料理で舌鼓。ゴロゴロしていれば、正月太り。

立春も過ぎて、これから春への準備が始まる。防寒もあとひとふんばり。

2月12日まで横浜中華街では獅子舞を見ることができる。

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秋山郷・とねんぼ

記録的な豪雪で、秋山郷周辺が孤立してしまったニュースは全国をかけめぐった。

もともと、秋山郷は日本一の豪雪地帯と言われており、昭和20年2月12日に785cmの積雪の記録がある。

1月11日から自衛隊員が現地入りし、雪下ろしが必要な5軒がのうち2軒が終わり、12日は残る3軒の作業中ということである。

200軒に満たない世帯で、村民は500人ほど。高齢の方も多いと聞く。一刻も早く安全な状態になるよう、お祈りしています。

以前、このブログで掲載した温泉たまごをおいしく頂いたところは実は秋山郷なのです。

長野県からの帰り、小腹をすかせて到着したものの、食堂が開いておらず、やっとありつけた食料であった。

水が流れれば大滝になりそうな垂直の深い山々に囲まれた秘境。日本三大秘境に数える説もある。訪れた中でも印象的な場所だ。

秋山郷は、信越国境にまたがる中津川渓谷沿いに点在する13の集落の総称である。行政的には、長野県栄村新潟県津南町に分かれるが、文化的、社会的には一つの地域を形成している。

その起源は、平家の落人伝説をもつ中世の隠田百姓村であり、高倉山、小松原、矢櫃など、平家ゆかりの地名もみられる。一方秋田マタギが秋山郷にやってきて定着し、狩猟法を伝播している。「平家谷」のムラである秋山郷には、生業、衣食住、言語、民族芸能、宗教などの分野において、伝統的な地域文化が豊かに形成されてきた。」(秋山郷総合センター とねんぼ で頂いた、信州秋山郷民俗資料室ガイドより抜粋)

上記の資料室ガイドから一部要約して、秋山郷を少々紹介してみたい。

農業では焼畑(苅野)を梅雨明けの夏の小乾季に火入れをし、降雨があり次第、そば、だいこん、かぶなどを栽培する。二年目にはアワ~大豆、あるいはエゴマ~アワ~大豆~アワの順に作付けし、最後にソバ、エゴマ、キビなどを作って捨て、山林に還元する。焼畑を苅野というのは東北地方と共通しており、秋山郷の農耕文化は東北の山村型である。ちなみに、昭和30年頃の焼畑で働く婦人は素足。雑草の種が入るのを防ぐためである。

アワ、キビなどの種物は、ヒョウタンやユウガオで作った「種入れ」に入れて大切に貯蔵されていた。この方法は一度試してみたい。中身のあるインテリアになりそうである。

手打ちそばは「晴れの食」だが、秋山郷では小麦が作れないので、そばのつなぎにはオヤマボクチ(アザミ科の植物)の葉の繊維と布海苔を用いている。太いそば切りと芽粉を多く使った黒いそばは、秋山郷の特色だそうだ。

アンボ→直径8センチもある饅頭のこと。アワ、ヒエ、キビ、屑米、シコクビエ、ソバ、栃の実などの粉を練り、野菜や山菜の味噌和えを餡にして包み、ふかしたもの。おやきに似ている。

チャナコ→焼餅のこと。アンボ同様に粉をこねて茶碗大にまるめ、これを落としの上で乾かし、さらに囲炉裏の灰の中で焼いたもの。

アンボとチャナコを主として朝食に食べられ、携帯食にも利用された。

いつぞや、JRのどこかの駅で、秋山郷の出店が出ていてびっくりした。時間がなかったので立ち寄れなくて残念。そういえば、温泉卵を食べた後、立ち寄ったお店で食べたそばは何からできていたのだろうか。窓の外のあまりに絶景な山ばかり覚えている。

夜の明かりは主として松明が使われ、これは赤松の根を掘って用いた。高級な灯火にはエゴマが使われたが、食用油として貴重なため、あまり利用されなかった。

江戸時代、繊維は山野に自生する苧麻を用いて縮を織った。野生の苧麻にはエラソ、赤麻(赤苧とも書く、別名ウロ)、青麻(青苧とも書く、別名山麻’やまそ’)の三種類があった。栽培種には青麻を改良したカラムシが作られていた。また明治時代になると、大麻も栽培されるようになった。

福島県昭和村のからむしを思い出す。昭和村のからむしは新潟県の小千谷縮となり、そして、秋山郷にも伝わったのかもしれない。大麻栽培が始まったのは意外に遅いと思った。

ねこ→稲藁で編んだマット。板の上に敷いて保温力を高めた。江戸時代、信州秋山郷では稲作が行われていないので、スゲやガマなどでねこが編まれた。現在は、ねこつぐらとして、同地の特産品になっている。子猫には大のお気に入りになるそうである。

秘境・秋山郷の特産品「ねこつぐら(ネコツグラ)」(大)

次は秋山マタギについて。

マタギの歴史を知らなくても、秋山郷の山を見れば見えないマタギが見えてくるようだった。例のそば屋から見えた風景はまるで飛行機の上から見下ろすような臨場感があった。窓の下は目もくらむ断崖絶壁。

秋山郷の猟師は、秋田からやって来て定住したマタギの五世だという。マタギは日光派修験道の信仰を持ち、親方の指揮に従って、組織的に行動する。

秋山マタギの仲間の中でしか通用しない山言葉は500にも達するといわれている。

特に「」はタブー。だから、「5個ならできるけど・・・・」だったのだ。そのときは単に縁起かつぎだととっさに理解したのだが、よく考えてみれば、マタギの歴史がある秋山郷では特にいけない言葉を発してしまったのである。山でなくても里でも同じなのだろう。

湯西川の平家の里でもいまだに鯉のぼりをあげない、という風習を守っている。平家の後裔やマタギの歴史が残る地方では、昔からの伝承をとりわけ大切にしているらしい。

秋山郷は民間医療のメッカだそうだ。黄蓮(胃腸・切り傷・できもの・肺結核の治療によいとされている)、オウバク(咳止め)、オニク(下痢止め)、ゲンノショウコ、どくだみ。

燻製した蛇の粉末は心臓病と胃腸に効果があり、熊の肝(秋山郷ではツキノワグマ)の肝は万病に効く特効薬で、潰瘍、切り傷の回復が早くなる。猟師の減少、乾燥法の難しさ、需要の増加などにより、高騰するばかりである。身近なところでは、六神丸に入っている。

以前訪れた秋山郷をひもといてみると、このブログで掲載した、数に対する話、マタギからむし大麻平家の里松明、などが偶然にも集約されたようだ。それだけ、今昔の智慧が伝承されてきている里ということだろう。

さて、タイトルの「とねんぼ」とは?

物と物とがひとつにとけあい、ねばりつく姿を表現したこの地方の方言。

秋山郷総合センターとしては、「この意から、大勢の人達がここに集まってくれる事をねがっています」とのこと。

まさにワンネスの思想ではないか。テレビで秋山郷を初めて知った方も多いことと思う。

そして、なんて、雪深い里だこと、と。春がやってきたら、あの大自然に会いに訪れる人が増えるかもしれない。

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智慧の神様・思金命

今昔智慧Seek50回記念には智慧の神様に登場して頂こう。

智慧の神様といえば、あの天の石屋戸神話で天照大神を外に引き出す智慧を搾り出した、

  思金命(おもいかねのみこと、思金神)

高御産巣日神の子で高天原一の智慧袋の神。天照大神の参謀でもある。

八百万の神々が天の安の河原に集まって相談した、石屋戸脱出の作戦とは・・・

長鳴鳥を集めて鳴かせ、天の香山から根つきの榊を掘り取り、その上の枝に勾玉の飾りをつけ、中ほどの枝にやたの鏡をかけ、下の枝に白と青の幣を取り付けた。

天児屋命が荘厳な祝詞を唱え、天宇受売命が天の香山の笹の枝を持ち、天の石屋戸の前で、桶を伏せた上で踊りだした。ほとんど全裸に近い状態である。

八百万の神が楽しそうに笑っているところを、天照大神が石屋戸をほんの少し開けて得て、質問をされる。もっと尊い神様が現れた、と鏡を差し出す、身を乗り出した神の手を天手力男神がひっぱりだした、という神話。

あらためて読んでみると、用意周到な作戦である。音、勾玉、植物、幣帛、色彩、笹、楽しいイベント、舞、笑い声、興味を持たせる言葉、鏡(か・みの間に、が=我があり)、そして強い力。

この事件後、須佐之男命は多くの貢物を出して罪を償い、ひげと手足の爪を切られ(抜かれ)高天原を追放された。余談だが、このひげと手足の爪を切るという行為は古代ペルシア社会での刑罰と似ている、須佐之男命の衣装はその時代の衣装にそっくり、と読んだことがある。スサノオのスサはアケメネス朝ペルシアのスサに由来しているとか。神話となっているが、史実であると考えればどの時代なのだろうか。

思金命はニニギノ命のお目付け役でもある。コノハナサクヤ姫がニニギノ命に疑われたとき、一番気をもんだのは思金命であろう。

今年の春、さきたま古墳の火祭り見物にでかけた。神話のクライマックスはコノハナサクヤ姫が小屋に火をつけて炎上させる。実際には地元で選ばれたニニギノ命役の少年とコノハナサクヤ姫役の少女が共に外から火をつけるのだが。

あんなに美しい色の炎を見たことがない。純粋な藁だけを燃やすとはこんな色になるんだなぁ。星が瞬き始めた夜空を焦がす巨大な、けれど、清廉な炎だった。

アケメネス朝ペルシアのスサの話が出たついでに、拝火教、ゾロアスター教も思い出してしまう。インドのプージャも日本の護摩も炎がつきもの。今風では『ハウルの動く城』のカルシファーである。

燃やす前、希望者は大国主命のようなかつらをかぶり白い装束を着て、大きな松明を持って練り歩くことができる。おじさんたちもぼよんぼよんになっているかつらをかぶっているのである。想像していただきたい。暗くなり、大音響のバックミュージックがかかれば、ムードは盛り上がった。

無事成功を祈る実行委員長は、思金命役になりきってもいいかもしれない。

ところで、長野県伊那郡阿智村智里に阿智神社がある。川が潤う昼神温泉で散策しているとき、偶然みつけて参拝した次第である。

ご祭神は天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)と天表春命(あめのうわはるのみこと)。

あの、天の石屋戸の~と思い出した。智慧の神様、また、お名前からものさしの神様でもあるらしい。阿智村は文字通り、智の里である

帰り、鳥居のそばで白い蝶が子供の手に止まった。しばらく歩いても飛ばないので、手が甘いのか、どうやら宿までついてくるらしい。

15分くらい歩いて、ついに宿の部屋までついてきた。どうしても飛ばないので、旅館のバルコニーから飛んでもらった。思金命の神使いだったのかもしれないな。

その夜、昼神の伝承劇を見た後、フィナーレには花火が上がった。真上に上がる大きな炎の花は本当に村里の人々と旅人のためのプライベートな宴であった。阿智村は奥深い自然の素朴さと華やかな宿がうまく調和し、智慧の神様が鎮座されている心温まる村である。

これは今昔智慧Seekを始める前の旅。智慧袋の思金命さま、このサイトのご祭神になって頂けませんか?

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ターシャ・テューダーの輝きの季節

日比谷花壇リース「システィーナ」

11月26日NHK総合土曜特集、午後7時30分~8時45分放送

「喜びは作り出すもの、ターシャ・テューダー四季の庭」

見たい見たいと思いつつすっかり忘れているころ、テレビをつけるとちょうど放映中であった。

この番組をみて、絵本でしか知らなかった淡いセピア色で平面のターシャの世界が、いきなりカラフルでリアルな立体の世界へシフトアップした。

コーギー犬のメギーが走る、花々がそよぐ、木々がざわめく、暖炉の炎が揺れる。

レイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー』を髣髴とさせる自然の美しさ。

  絵本の世界が命を持ち、本当に生き生きと動いている・・・・・・・。

私の特にお気に入りの絵本『輝きの季節 ターシャ・チューダーとこどもたちの一年』

  ねぇ、おばあちゃま、ママがわたしくらいだったときのことを話して。

  10月には収穫したリンゴでジュースを作ったわ。

テレビのなかで、ターシャの孫とその若くういういしいお嫁さんが動かしている大きなリンゴ絞り機はまさにこのページに描かれている装置だ。恐らく若きターシャに抱かれているあかちゃんが絞り機を触ろうとしている。かごいっぱいのリンゴとジュースを汲んでいる少女、そばにコーギー犬も。

   一年分のろうそく作りも、11月の仕事だったわね。

テレビのなかで、やはり孫たちとターシャが慎重にみつろうの液にひたしているのは絵本と同じ細長いろうそく。半年分で1000本をつくるそうである。

みつろうのろうそくは温かい香りがする。西洋の香り。

ハゼの実から作る和ろうそくのやわらかい炎は日本の色。

伝統的な手作りのろうそくの明かりはホッとする。

1915年、肖像画家の母、ヨットの設計技師を父に、ターシャはボストンで生まれた。社交界デビューを拒んだというから、あるレベル以上の階級に属していたのだろう。ところが、十代の頃両親は離婚、彼女自身は養う能力のない夫と離婚。子供たちを抱えてターシャは生き抜いていくのである。

絵の才能が彼女たちの生活を支えた。画家の才能ばかりではない。彼女は糸紡ぎ、機織り、裁縫、料理の分野でもプロ級の腕前だという。それは『ターシャ・テューダー手づくりの世界 暖炉の火のそばで』が物語っているだろう。たくさんの類まれなる才能と彼女自身受け継いできた智慧と彼女の新しい工夫により、子供たち、孫たちはすこやかに育ち、そしてバーモント州の30万坪の美しい敷地はゆったりと四季を重ねていくのである。

彼女はまさに今昔智慧の塊の存在である。彼女は画家であるがゆえに世に名を知られたが、彼女のような存在はまだまだ健在のはずである。

代々受け継がれてきた智慧を彼女は四季の行事などを通じて子孫たちに繋げていこうとする。

暖炉でつくるスローなローストビーフつくり。

  4時間もかかるけど、肉汁が染みわたっておいしいのよ。孫のお嫁さんが受け継ぐ。

  何百も球根を植えるのは大変だけど、春に美しく咲くのが楽しみ。

  でも、年をとってきたから、この庭は自然に帰すつもりよ。

  経験が一番の先生なのよ。

  想像力は心の糧。

  幸せを感じるかどうかは心の持ち方によるのよ。

      辛抱は大切なこと。庭造りも人生も同じなのよ。

              辛抱すれば必ず春は来るからね。

私たちも、

  降り止まない雨はない。夜明けの来ない朝はない。

といいながら、仕事などをやりぬくことがある。ターシャのことばは春のイメージがトータルに感じることができる。

  年をとっていいこともあるのよ。みんなが助けてくれるからね。

  この世には沢山のもの、美しいものがたくさん。

  喜びはつくりだすものなのよ。

今年はいつもよりたくさんの球根を植えよう。水仙、ムスカリ、チューリップ・・・・きっといつもより春が待ち遠しくなる。

センテッドゼラニウムのローバスレモンとレモンバーベナ、温室ではなく今年は窓辺に置こう。風に揺れるレースのカーテンに触れるたびに香るし、ターシャの微笑みを思い出すから。

  

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五個ならできるけど・・・・・

志賀高原でゆっくりと避暑したあと、新潟周りで帰宅したことがある。かなり遠回り。

途中、ガードレールなしの道の下は崖、荘厳さと不気味さをも感じさせる切り立った山山山。マタギのなわばり。

臼状にひろがる、ひなびた温泉地にたどりついた、が、適当な飲食店が、ない。平家の隠れ里の歴史があるらしい、そんなひっそりとした村。

空海が開いたという温泉がコポコポと音を立てて涌いていた。

「温泉卵用意できます」と立て札。

あぁ、小腹にうれしい。さっそく、その温泉宿に足を踏み入れてみた。

人気のない、動きのない空気。やっと割烹着姿のおばさん二人をみつけて、

「温泉卵、注文できますか?」

「あ~できるけど」 顔にサービスのサの字もないそっけない返事。ちょっと緊張。

   「四個お願いします」

   「えっ・・・・・四個?」としかめつらをして、二人は顔を見合す。

けげんそう、かつ、縁起悪そうな顔つきで私たちを舐めるように見るのだ。

   「四個じゃねえ。五個ならできるけど・・・・・

   パッキーーーーン(その場が気まずく張り詰めて、フリーズする音)

とっさに私は、(ここは平家の隠れ里、昔からの伝承、迷信も大切にしているに違いない、四はシ、死だからタブーなのだ、あまっても五だ)とピンと思い、

「い、いえ、いえ、ゴ、五個でお願いします」

宿のおばさんは、安心した顔つきになって「五個ならできるよ、温泉からあがる頃には用意しとくから」

かくして、窓の外の豊かな山を眺めながら温泉につかることができた。

が、温泉から出てくると、誰もいない。

ほうぼう探して、やっと離れの客室でうたたねをしているおばさんを発見。

やっと手にした温泉卵はぬくぬくと暖かくてほっくりおいしかった。

あまったひとつの卵は分けて食べた。

都会のお店ではおそらく経験できない買い物方法であろう。オマケでなく、縁起のためにひとつ多く買わされたのだから。

一から数を数えてみて。

いち、に、さん、し、ご、ろく、しち、はち、きゅう、じゅう。

10から下に下がって数えてみて。

じゅう、きゅう、はち、なな、ろく、ご、よん、さん、に、いち。

不思議だね。ひとによって、多少の違いはあるけれど、10から下へ下がると、万葉言葉の記憶が出てくる、と聞いたことがある。日本語とヘブライ語は数字で言葉が書けるのが面白い。数字は宇宙語?数秘術、これまた奥が深すぎる。

ちなみに、学校では0はゼロではなく、零(レイ)、日本語で教えている。

「いえ、四個で結構です」と言ったら、ゆでてくれなかったかもしれない。

数魂尊重のおかげで、温泉卵にありつけました。

  

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『お月とお星』

人間が命をつなげていくために必要なものを語っている、日本の昔話があります。

    『お月とお星』のお話、ご存知ですか?

    継母と子捨ての話です。

むかし、むかし、お月という娘が父さんと二人きりで暮らしていました。そこへ新しい母さん、継母ですね、がやって来ました。連れ子のお星という娘は、お月を姉さんとしてなついたけれど、母さんはお月に辛く当たるばかり。

ある年の冬、父さんは遠くの町へ仕事にでかけ、家は3人きりになりました。母さんはこの機にお月を山へ捨てることを計画します。石の箱に閉じ込めて。お星はその石の箱を注文しに石屋へ行かされます。その時、お星は石屋に特別な注文をします。

「箱に2つの穴を開けてください。ひとつの穴からは空気が入ってくるように、もうひとつの穴からは光が差し込むように」

石の箱ができてくると、お星は母さんにみつからないように、箱の中に水と食べ物となたねを一袋入れました。なたねは山へ運ばれるとき、開けた穴から少しずつこぼしてもらうためです。春になれば菜の花が咲き、お星はお月を助けに行くことができるから。

翌日、母さんは石の箱へお月を押し込め、山へ向かいました。お月はお星に言われたとおり、穴から少しずつなたねをこぼしていきました。真冬の寒い寒い日でした。

やがて眠っていた命が目を覚ます春がやってきました。

お月が蒔いたなたねは見事な菜の花を咲かせました。黄色にそよぐお月へのくっきりとした道しるべとなっていました。お星はその菜の花の小道をたどって、無事お月のもとへたどりつけたのです。

重く硬い石のふたを開けると、そこにはやせ細って小さくなったけれど、確かに命のあるお月がいました。ところが、あまりの恐ろしさと悲しみで泣き続けたお月の目は見えなくなっていました。

その姿を知ったお星の目からは涙があふれ、その涙がお月の目にこぼれたとたん、お月の目は開いて再び見えるようになったのです。それから二人はあてどもない旅を続けますが、ついには実の父に出会うことができました。それから3人は幸せに暮らした、とさ。

というお話です。

空気、光、水、食べ物、そしてなたね。お月が冬を越え、春を迎えるための必要最低限の命綱でした。雪の降り積もる寒さからどうやって身を守ったのか、それは石の保温が守ってくれたと考えましょう。

空気と光と水と食べ物でお月は生き続けることができました。なたねはお星が差し入れてくれた人間の智慧でした。蒔かれたなたねは自然の空気と光と養分でしっかりと成長することができました。

そして、他の条件、春という時期と温度です。

お月にとっては、それに加えてお星の兄弟愛、迎えに行くという約束、それに対する期待と希望がありました。この精神的支えはさぞかし大きかったでしょう。

種を蒔いておけば、春になれば花が咲く。辛抱強く待っていれば。そして、あきらめないこと。

残酷でかわいそうなお話ですが、読むたびに生きる条件、その他の条件、精神的支え、などいろいろ考えさせられるストーリーです。心に残ります。

地上から見上げるに、星より月の方がはるかに大きく見えるので、月の方がお姉さんと考えられたのかもしれません。しかし、自ら光らない月は実は恒星、太陽系の月は太陽に照らされて光っています。お月にとって、お星の愛は太陽のよう暖かかったでしょうね。

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遣唐使 井真成 平成帰還

「ああっ、ここが憧れの長安、夢にまで見た長安、ついにやってきた!」

20年近くも滞在したあと、まさかこの地に骨を埋めることになろうとは思いもよらなかったであろうに・・・・。

井真成、弱冠19歳。717年(養老元年)、第9回遣唐使として意気揚々と長安に降り立った。このとき、僧玄昉、阿倍仲麻呂、吉備真備らが随行。青く澄み切った空と長安の雑踏、そして店から匂い立つ酢の匂いが彼らを迎えたことだろう。

井真成、中国史の学者はセイシンセイ、日本史の学者はいのまなり、と呼んでいる。姓は井上、葛井を中国風に変えたものか、もともと井だったのか、そこらへんのことはさだかではない。生まれた年は、699年。阿倍仲麻呂より1歳年下で、大宝律令公布の2年前ということになる。大宝律令の翌年には第8回遣唐使派遣、山上憶良、僧道慈などが随行している。この年、日本国と号す。その後、井真成は11歳で平城京遷都を経験している。

遣唐使はだいたい、20才前後で入唐することが多いので、阿倍仲麻呂も井真成もちょうど適齢期に第9回遣唐使派遣のチャンスが訪れたわけである。時の大唐帝国は713年に武韋の禍時代が終わり、玄宗の親政、開元の治が始まって4年。玄宗もきりりと若く、楊貴妃もまだ現れておらず、勢いのあった時代である。真成が到着した長安は世界の人々が集まり、さぞかし賑わっていたことだろう。留学生も当時で千人から数千人いたといわれる。

長安での勉学生活のわずか3年後、同期の阿倍仲麻呂は早くも科挙に合格。それはそれは秀才であった。李白や王維とも親交があり、一流の国際人となっていった。仲麻呂はたいそう玄宗にかわいがられたのはいいが、それゆえ、日本への帰国は許されなかった。在唐36年後に遣唐使船で帰国を試みるが失敗。ここで在唐を決断することになる。西安の公園に建てられた碑、

あまの原ふりさけ見ればかすがなるみかさの山にいでし月かも

私は仰ぎ見ながら、帰国できなかった彼をしのんだことがあった。

さて、井真成の方は、といえば、こちらは2004年4月、西安東郊外の河の近くで発見された彼の墓誌に刻まれた文字が語ってくれている。今年の夏、東京国立博物館で公開された井真成墓誌である。この墓誌について、HP管理人は中国の墓誌研究の第一人者である明治大学教授、気賀澤保規先生の講演会を聴講している。

発見されてからまず、陝西歴史博物館に持ち込んで断られ、その後、西北大学博物館に購入された。当初はその価値が評価されていなかったが、墓誌の中に「日本」という文字が発見されてから、大騒ぎとなったのである。日中外交にも微妙に関係してくるからである。その年の10月10日の空海入唐1200年の法要の折に、訪問団(平山郁夫団長)に公開された。空海のプレゼントなのかもしれない。ちょうど今から1年前のことである。

墓誌から次のようなことがわかる。祖国は日本で、生まれもっての才能があったゆえ、唐に派遣された。勉学に励んでいたが、不幸にも開元22年(734年)、正月10日、官舎で逝去、享年36歳であった。玄宗皇帝は大変遺憾に思われ、本人のために特別に追贈することを決められ、詔を下して、尚衣奉御を贈り、国として葬儀を行わせた。

亡くなってから、官位をもらったということである。それまでの経歴は一切不明。しかも尚衣奉御は従五品上でとんでもなく高い位置である。皇帝から何らかの意思が働いていたのではないか、と気賀澤先生は話されていた。当時の墓誌は7000位発掘されているが、井真成のような学生の身分での墓誌は初めてという。

多くの研究では尚衣奉御の職務内容が問題とされているようだ。この職務は皇帝の身辺の世話を担当する殿中省の衣服担当部局とされ、皇帝と私的関係の強いポストとされる。しかし、そうであっても死後に贈官されているので、いろいろと謎が多い。

皇帝に何らかの働きかけがあったと考えると、井真成と同期のエリート官僚阿倍仲麻呂の存在がちらつくのである。しかし、証拠があるわけではない。

733年(天平5年)、第10回遣唐使が派遣される。前回から実に16年経過している。翌734年10月蘇州から日本へ帰国。このとき、僧玄昉、吉備真備は帰国。 阿倍仲麻呂は帰国を許されなかったのである。これより8ヶ月前の2月4日、井真成は埋葬されている。

井真成は帰国船ともなる遣唐使船到着を知りながら、二度と祖国の土を踏むことなく客死していったのであろう。そして、阿倍仲麻呂はおそらく同期の桜であった井真成の死を送り、そして断腸の思いで遣唐使船さえも見送ったのかもしれない。なんとも切ない話ではないか。

井真成が西安で埋葬されてから、1271年後、彼が確かに西安で勉学に励んでいたことが記された墓誌が日本へ帰還した。ちなみに、彼が遣唐使に任ぜられたときの天皇は第44代元正天皇。草壁皇子の皇女であり、御母は天智天皇の第4皇女、元明天皇である。元正天皇は在位9年で、聖武天皇に譲っている。

そして、この夏、元正天皇から数えるに81代後の今上天皇、皇后両陛下に迎えられたのである。

ちょうど、閉館後の他の用件で東京国立博物館を訪れていた私たちは、両陛下にお声をかけて頂いた。水色の涼しそうなネクタイの天皇陛下、白と黒のツイードのスーツ姿の皇后陛下、ゆっくりと井真成の墓誌の部屋へと赴かれていった。どんなお言葉をかけられたのであろうか。

若き肢体で日本を出発した井真成は、長い長い時を越えて、墓誌に姿を変えて日本へ帰国、しかもその帰国は非常に公のものとなった。帰国できた遣唐使らの政治、経済、医学、文化などへの功績は大きい。しかし、井真成はまた違った形で私たちに今一度遣唐使や華やかな大唐帝国を思い出す機会を与えてくれたともいえよう。

墓誌の最後には「魂はこいねがわくは、故郷に帰らんことを」

東京国立博物館のパンフレットには・・・・・・「おかえり。」


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雷様とおへそ

今年の夏は例年より、雷による被害が多かったように思う。とりわけ、海岸での落雷は記憶に残っている方も多いだろう。水は電気を通しやすいため、海上の落雷は陸上より被害が大きくなる恐れがあるという。頭ひとつ分や波頭など、ほんのわずかでも高いところに落ちる。それでもあまり目立たないのは、陸上に比べて人が少ないためである。雷のエネルギーは電流が1000~20万アンペア、電圧が2百万~2億ボルトある。

「いつまでも裸でいると、雷様におへそをとられちゃうよ!」誰しもこんなことを言われた経験をお持ちであろう。どうして?親も答えられないし、考えてもわからない。昔からの言い伝え。そこへ、運悪く雷が本当に鳴ったら、あわてておへそを隠すしかないのだ。

吉野裕子氏はこの言い伝えの謎を陰陽五行によって解こうと試みられた。ご本人のサイン入りの『かみなりさまは、なぜヘソをねらうのか』サンマーク出版によると、春は自然が胎動をはじめるとき、万物が動き出すときで「木気」、雷は天上で「震動」するので「木気」。へそは人間=土気の中央にあるので土気中の土気。相剋説の「木剋土」から、木気の雷が土気のへそを狙う、と解釈されている。

また、「雷が鳴るとなぜ蚊帳の中に入るのか、については蚊帳の四隅についている真鍮の輪が「金気」のため、木気の雷に対しては「金剋木」となり、蚊帳の中に入り込めない、という。雷鳴がとどろくときに生まれた新生児はその影響を恐れて「鉄太郎」などと名づけたが、それもこのルールにのっとたものだそうだ。当時の知識層であった、寺僧や修験などから理由は説明されず、ただ「こういうときには、こうするものだ」と教え込まれていたのでしょう、と結ばれている。

陰陽五行の思想からではなく、最近の情報から解釈を試みてみたい。冒頭に今年は雷の被害が多かったと記したが、そのニュースに関連してテレビで、ある医師が「落雷にあった人のおへそは真っ黒」と説明していたというが、つまり感電でやけどを負った状態であろう。へそに抜けるのだろうか。昔の人は、落雷にあった人の焦げたおへそをみて、「おへそをとられた」と表現していたのではなかろうか。まさに、経験則からの注意報である。迷信と片付けられていることも何かの根拠があるのではないか、と探ってみるのも有意義だ。ただし、おへそを隠している暇があったら、現代の雷から身を守る智慧を身についけておいたほうが現実的である。特に夏場の雷は近づいてくるのがわかるというから、海にいる人は雷が鳴ったら直ちに水から上がり、安全な場所へ行くのが唯一の方法とされている。

雷が鳴ったら蚊帳の中へ、であるが、昔の蚊帳は化繊ではなく麻、特にヘンプ製が多かったので、その観点からすると静電気避けの意味合いがあったのではないかと思う。雷鳴のときは大気中に大量の静電気がたまり、体も不快だし、気分も不安定になりがちである。ヘンプは電磁波をカットするとも言われ、パソコンをするときはヘンプ製のTシャツを着たり帽子をかぶる人もいると聞く。また、蚊帳の中は外気より若干温度が下がるため、雷のときは蚊帳の中で、少しでもその不快感、不安感を和らげよう、という昔の人の直感が、結果的には功を奏していたのではないかと思う。

世界でも雷にまつわる神話伝承は多い。古代人にとって最も恐るべき脅威のひとつであったであろう落雷の現象は、時に神格化、尊崇して被害を最小限に食い止めようとしていた。雷の信仰としては、雷電そのものの神格化、天神、水神、山神、死霊神などの他の神の神格の属性、もしくは一機能、という2種類がある。北欧神話のトルや中国の雷公はそのものの神格化、ヘブライのヤーヴェ、ギリシア神話のゼウスなどは雷電が彼らの武器である。雷神の武器としては一般に槌、斧、弓矢、刀剣、棒、石などがあり、雷鳴の道具としては太鼓、ドラ、車などがある。雷神の形態としては、人の形が多いが、古くは動物の形が多い。蛇、龍、亀、トカゲ、鳥類、猪、牛、狸、イタチ、ネズミ、雷魚まで様々である。

中国の雷公は古くは龍蛇形と考えられていたが、のちに人の形となり、左手に連鼓、右手に槌を持ち、力士のような姿であるとされる。おそらく日本近世の雷神のモデルとなっているのではないか。中国に昔落ちた雷公は身長2丈(6.6メートル)余り、猪のような顔、長い角を戴き、翼をつけ、豹の褌を腰にまとっていたという。日本の虎皮のしましまパンツとそっくりではないか。ちなみに、日本の武士の座布団にもなる毛皮のランクは下から、鹿、三位以上が虎、殿が豹である。なぜ、日本は虎皮なのか未だにわからないが、稲妻の色彩感覚と雷鳴の音響感覚からすれば、豹よりランク下とはいえ、虎のほうがセンスが合っているような気がするが。

我が家には浅草のほおずき市で授かった、「雷除け」の三角形のお札が祀ってある。その昔、落雷のあった農家で「赤とうもろこし」を吊るしていた農家だけが無事であったことから、文化年間(1804~1818)以後に「雷除け」として赤とうもろこしが売られるようになった。ところが、明治初年に不作が原因で出店ができなかったことから、人々の要望によってこれに替る「雷除け」が四万六千日の縁日に浅草寺から出されるようになったということです。この「雷除け」は一年のうち7月10日だけに並ぶ、たった一日の期間限定札である。

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壇ノ浦のその後・湯西川『平家の里』

旅の途中、ふらりと栃木県の湯西川温泉に立ち寄った。以前宿泊に来たときは、早春のなごり雪の中、マタギの里を見学した覚えがある。かなり冷えこんだ。当時はまだ高級品だったまいたけを山ほど買ったり、静かな町をぶらぶらした。

今度は真夏、深い山を潜り抜け、途中、嵐のようなスコールの洗礼を受けて到着したときは、うそのように晴れていた。いうまでもなく平家の隠れ里である。ちょうど今日はNHKの大河ドラマ『義経』「決戦・壇ノ浦」の放映日だ。この里は、壇ノ浦の「その後」の一端でもある。

平家の里を復元したという『平家の里』の冠木門はなかなかおごそかである。今は緑の覆いかぶさる木々は、秋にはさぞかしあでやかであろう。内部は太敷館(受付)、調度営みどころ(民芸品加工所)、よろず贖いどころ(生産物直売所)、床しどころ(展示館)、種種伝えどころ(郷土文化伝習館)かれいの館(お休み処)、湯西川赤間神宮(安徳天皇の菩提寺である下関赤間神宮の分祠)、鹿園、平家塚からなる。

園内を散策しているとき、琵琶奏者の桜木亜木子さんとすれ違った。江戸紫の着物に長い黒髪がたれ、白い足袋が足元の苔に映える。演奏があるのも知らなかったが、間に合わなかったのは残念である。演奏の舞台であった種種伝えどころの屏風の前には座布団がはんなり置いてあるまま。琵琶の倍音がまだまだ空気をゆらしているようでもあった。

さて、湯西川へ平家の人々がやってきた経緯。壇ノ浦の戦い後、平家は日本中に散らばっていく。平家の家臣、平貞能は小松内府平重盛の妹君である妙雲禅尼、忠房の忘れがたみを擁し、宇都宮の藤原朝綱公のもとへ落ちのびた。その後、さらに藤原の最高峰、高原山に身を隠したが、一族の婦人が男の子を出産。その折に端午の節句に鯉のぼりを立てたが、源氏方に見つかり、貞能は塩原へ、忠房公の忘れがたみ一族は湯西川へたどり着き、やっと落ち着いたのであった。これ以来、湯西川では鯉のぼりをあげず、鬨をつげる鶏は飼わないという風習が残っているという。風習の発祥にはこんな苦い経験がからんでいることもある。

『平家の里』の出口近くには、「平家塚」という一族の財宝を埋めた林がある。その塚は楡の木とイチイの木の根元にある。数多くある木々の中から、なぜこの二つの木が選ばれたのか。平家の人々は意識的に植えたはずである。

楡の木はすでに「不安に打ち勝つ・ニレの木」で掲載済みである。ぜひ参照されたい。死と悲しみのシンボルでありながら、不安に打ち勝つという幸福の木。もうひとつのイチイの木は11月に掲載する予定。西洋では墓場の木、魔物を追い払うといわれている。それは毒性が強いからであって、財宝がけものに掘り起こされたりしないように、という配慮があったのだと予想される。平家の人々も木の特性をよく知り尽くしていたのだろう。

最後に、安徳天皇のその後について追記しておきたい。従来は海に身を投げて短い一生を終えたとされていたが、今日のテレビ放映では時子が身代わりを抱いて共に身を投げた。その後、どう描かれるかは来週のお楽しみ。

ところで、安徳天皇が落ち延びたとされる伝説地は実に十数か所に及ぶ。その中でも、阿蘇の上益城郡清和村緑川地区には安徳天皇の山陵跡があるという。超古代の阿蘇朝廷時代、天照大御神の皇居があったと伝説される、日の宮幣立神宮のそばである。幣立神宮といえば、1995年の五色人面祭に参加したことがある。もうちょうど10年前だ。その折、『安徳天皇と日の宮幣立神宮』柞木田龍善、新人物往来社の増補第三版に出会った。盛大な祭りの隅で静かに並んでいた本である。

地元では800年来ずっと、安徳天皇陵として祀ってきたが、なぜ最近になってクローズアップされたか。それは昭和58年に日の宮幣立神宮で神霊者が安徳天皇の神示を受けたことに始まるという。その後、安徳天皇の御魂を祀っている山宮神社社殿屋上に安徳天皇と二位尼局と思われる姿の不思議な写真を撮られた方がおられるという。

交通はかなり不便であったが、すばらしい自然の残る蘇陽町周辺。私も不思議な体験をした。そのうち取り上げてみよう。蘇る太陽の町は超古代から平家の情報まで深く擁しているようだ。


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杉の枝の迎え火

車を止めて、農家の朝取り野菜を手にしているとき、ふと傍らの家に不思議な物体がそびえ立っているのに気がついた。

高さ4メートルくらいに木を組んで作ってあるその形は、子供の頃、仲のいい男女をからかって壁や地面に書いた「アイアイ傘」のようだった。三角の真ん中に支柱があるという形だ。面白いことに三角形のそれぞれの頂点に針葉樹の枝が天狗の扇のようにつけてあり、さらに二等辺三角形の二本の辺の部分に3本ずつ等間隔につけてあるので、その枝は全部で9本ということになる。

眺めていると、ちょうどその家のご主人が車で帰宅された。ちょっとインタビュー。

「ちょっとお伺いしてよろしいですか?これはどんな意味があるのでしょう?」

「これはね、新盆の年から3回だけ、飾るんだよ。提灯ぶる下げてね。」(実際には奥会津弁)

「仏様の目印にするんですね。この枝は杉ですか?」

「そう、だよ。むかしっからのならわしなんだよ。」

大きなものだから、これに提灯をぶる下げたら、さぞかし目立つことだろう。空から見下ろしたら、平面的なクリスマスツリーがゆらゆらと光って見え、新人の仏様もすぐに我が家を探し当てることができるのだろうな。どうして杉なのか、なぜ3回なのか、聞いてもわからない。詳しくはわからなくても、先祖から受け継いでいる風習なのだ。

いや、待てよ。亡くなった人の家の前に木を置くとは、どこかで聞いたような…。

このブログで前回紹介した「イトスギ(サイプレス)の十字架」では、南ヨーロッパの昔、亡くなった人の家の前にイトスギを置く習慣があった。亡くなった直後、新盆、と違いはあるが、イトスギ、杉という常緑樹をを家の前に置くという点では類似性がある。杉を新盆につる下げるのは、抗菌性というよりはすぐには枯れないという性質と常緑樹という生命力にあやかっているのかもしれない。

遠く離れたヨーロッパと日本の福島県奥会津、杉に対する感性は不思議に似通っている。偶然みつけた人と植物に関する風習であった。

これは奥会津の昭和村でのはなし。次回の「昭和村のからむし」につづく。

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アイヌの儀式『イオマンテ』

『イオマンテーめぐるいのちの命の贈り物ー』という絵本が北海道から届いた。企画・発行は「十勝場所と環境ラボラトリー」。「21世紀に対応したライフスタイルを十勝から世界に発信することで、地球環境に貢献しよう」という目的で活動してきた団体である。寮美千子さん文、小林敏也さん画で、5年の歳月をかけ、アイヌの人々ーフチ(おばあさん)やエカシ(おじいさん)ーから直接話を聞いて作り上げた作品だという。詩情豊かでいきいきとした文章、スクラッチという手法が、よりアイヌの生活、儀式を鮮やかに映し出している絵。本棚に凛とした絵本が加わった。

アイヌには文字がない。だが、すばらしい数々の口伝の話やウポポ(座り歌)、リムセ(踊り歌)が伝承されている。この絵本ではイオマンテの儀式の文字化が実現し、私たちの手元にも届くことになったわけだ。発行元としてはアイヌの人々の自然と調和した生き方に学びたい。そして、絵本を通して子供から大人までたくさんの人々に伝えたい、そんな思いから、製作にあたったそうだ。

物語は真っ白な雪の世界が、真っ赤な鮮血で染まるところから始まる。

生まれたばかりの子熊に乳を飲ませていた母熊は、人間の放った矢によって「どう、」と倒れ命を奪われてしまう。母熊をしとめてきた人間のとうさんは、「山の神様からのいただきものだ」とたっぷりの肉とりっぱな毛皮をかついできた。その夜、コタンの家々では熊の煮込みをたらふく食べ、人々は体の心までほっかり暖まった。

熊をしとめた家の男の子には新しい友達、いや、妹ができた。あの母熊の一粒種の子熊である。かあさんは自分のおっぱいを子熊にも含ませて家族同様にそれはそれは大切に育てた。男の子と子熊は遊ぶのも寝るのもいつも一緒。かけっこ、木登り、すもう、魚とり、二人は一緒に成長していった。

子熊がだいぶ大きくなったある日、熊を送る儀式「イオマンテ」が行われることになる。送るとはカムイの国へ送ること、「死」を意味する。

儀式の用意で村はてんてこまいで心が浮き立つよう、その一方で子熊との別れを思うとつらく悲しい。男の子はその日が来るのが怖かった・・・・・・。

作者の寮美千子さんはいつくしみ育てた子熊を殺し、なぜおいしく食べられるのか不思議でならなかったそうだ。しかし、アイヌの古老から、苦しくて悲しくてならなかったことを聞き、また、矢を放ちしとめ矢を放つときに女の人が泣いている場面の記録があることを知り、ホッとしたという。

人間たちはその儀式の過程で、自らの家族同様の存在を失うという深い悲しみ、辛さを体験することになる。そこで改めて「命をいただく」というありがたさ、重みをかみ締めるのだろう。痛みを知ってこそ、気づきが深まる。子熊の兄であった男の子はこの通過儀礼ともいうべき強烈な体験を乗り越えて、命の尊さがわかるりっぱな狩人になり、そしてこの体験を子供たちに伝えていく。

儀式「イオマンテ」。「すべてはめぐるいのちのめぐみ」。自然に感謝することを忘れないというアイヌの人々の繋げてきた深い智慧。

この話を口伝された一人、フチの安東ウメ子さんが2004年7月15日に71歳で亡くなった。ちょうど1年前、新聞で知った私の心にふっとさびしい風が吹き抜けた。舞台の上のウメ子さんは深い懐の暖かい方だった。ウポポとこの話も残して下さった。この絵本、朗読すると何度も胸がつまったり、熱くなる。読んでみたい方はぜひ、以下のホームページにアクセスしてみてください。http://www.kankyo-lab.com/

最後に、前回の「モミの木」で採り上げた、フィンランドのボチャークの人々の熊祭りの儀式を記しておこう。フィンランド人たちは,熊を殺すと祭を行い、熊の頭蓋骨に酒をついで飲み、今後も獲物がたくさんとれるように熊のうなり声をまねるという。熊の頭蓋骨に酒をつぐのは命の再生という意味もあるらしい。ここで思い出すのは織田信長が敵の大将のドクロに酒をついで飲み干した、という逸話だ。イオマンテでも子熊の首を祭る。この話は古から続いていた首狩の習俗へも続いていきそうである。

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大工さんに伝わる怖い話

建築関係のブログの方からトラックバックをして頂きましたので、今回は大工さんに伝わる怖い話をしましょう。

以下は武蔵野美術大学教授の神野善治先生からお聞きした話です。日本中の昔話や伝説等の中で、一般の人は耳にすることはないといいます。代々大工さん仲間だけの口伝で、棟梁から若い弟子へ今でも語り継がれている内緒の話だそうです。

あるとき、飛騨の有名な宮大工は大きな仕事をもらい、誠心誠意毎日仕事に励んでいました。ところが、かなり建物ができたころ、とりかえしのつかない失敗をしてしまいました。入り口の両側の柱を短く切ってしまったのです。これは大変です。頭を抱えて困りきっているところへ、その宮大工の女房がある智慧を授けます。

柱の下に「はかま」をはかせなさい。そうすれば短く切ってしまったことがわかりませんよ。

かくして、この宮大工は女房の智慧と自らの技術によって、無事に完成させることができたのです。今でも見られるはかまをはいた柱の元の話なのでしょう。建築関係のホームページで、建て直しのとき建具を再利用するにあたり、長さが足りないということで大工さんが建具にはかまをはかせてはめこんだ、という話を読んだことがありますが、この話とつながりそうです。

大工さんに伝わる怖い話、でしたからこれでこの話は終わりません。

この宮大工は口封じのために女房を殺してしまったというのです。ただし、この話も地方によって話の内容が違うようです。

それからというもの、その宮大工は供養のためにか、棟上のたびに五色の布とくしやお化粧道具を屋根裏に祀り、その習慣は今でも続いているそうです。入れるものは地方によって異なり、私も実際に、コケシ、くし、鏡、かもじ、紅、おしろい、鶴亀の扇子、人形などを見せて頂きました。

建築の儀礼に関しては、大工さん自身が行います。いろいろなものを祀るのは彼らが建築していく上で守り神とするためです。また、木は切り出され、犠牲になりながらも家になってくれるので感謝を表す意味もあるらしいです。

奥さんのことを「山のカミ」といいますね。建物になる木は山から切り出され、里へお嫁入りしたようなもの。習慣的に使っている言葉と民俗は相互に関係があるものが多そうです。この口伝は大自然と人間との係わりを伝えようとした話なのかもしれません。

神野善治先生にはご本人の『木霊論 家・船・橋の民俗』白水社を紹介して頂きました。(おすすめの本参照)

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